「がんばろう!岩手」意見交換会(平成24年5月25日 盛岡市)

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ページ番号1000896  更新日 平成31年2月20日

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写真:懇談会の様子1

日時

平成24年5月25日(金曜日)14時00分から15時00分

場所

盛岡地区合同庁舎

出席者

  • 参加者(敬称略)
    伊藤 万里子(さんりく工房株式会社 代表取締役)
    熊谷 浩昭(居酒屋「陸前高田・俺っ家」代表)
    箱石 春菜(岩手県立大学看護学部1年)
    小田中 由美子(モーリオの空 事務局)
    細田 玲(もりおか復興支援センター副センター長)
  • 県側
    達増知事
    菊池盛岡広域振興局長
    稲葉秘書広報室長

開会

菊池局長

ただいまから県政懇談会「がんばろう!岩手」意見交換会を開催したいと思います。
まずもって、本日御出席いただきました方々には、御多忙のところお越しくださいまして本当にありがとうございます。心から感謝申し上げます。
私、本日の進行役を務めさせていただきます盛岡広域振興局長の菊池でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

知事あいさつ

写真:懇談会の様子2

菊池局長
それでは、開会に当たりまして知事から一言ごあいさつを申し上げたいと思います。

達増知事
皆さん、こんにちは。今日はお忙しいところをお集まりいただいてありがとうございます。
県政懇談会「がんばろう!岩手」意見交換会、去年3月11日の東日本大震災津波を踏まえ、この復興に向けてさまざま活動されている、取り組んでいらっしゃる県民の皆さんの生の声を伺おうということで復興の現場でお話を伺うということで、今まで沿岸各地で開催してきたのですけれども、復興はオール岩手の復興だということ、また盛岡をはじめ内陸においても沿岸とのつながりの中で、まさに盛岡を現場として復興への取り組みが行われているということで、今日は盛岡を舞台に開催をさせていただきます。
復興は、県の計画では8年計画でありますので、1年を経過した今でもまだ初期の段階であります。さまざま進んだところもありますけれども、まだまだこれからというところもありますので、今日伺ったお話を参考にしながら県の施策も進めていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

菊池局長
ありがとうございます。
それでは、私のほうから本日の御出席の皆様を御紹介いたしたいと思います。
まず、さんりく工房株式会社代表取締役、伊藤万里子様です。
次に、居酒屋「陸前高田・俺っ家」代表の熊谷浩昭さんです。

熊谷浩昭
よろしくお願いします。

菊池局長
岩手県立大学看護学部1年の箱石春菜さんです。
モーリオの空、小田中由美子さんです。

小田中由美子
小田中です。よろしくお願いします。

菊池局長
それから、もりおか復興支援センター副センター長の細田玲様です。

細田 玲
細田です。

菊池局長
それから、県からは達増知事。
それから、秘書広報室長、稲葉比呂子です。

稲葉室長
よろしくお願いいたします。

菊池局長
それから、本日は盛岡市の東藤市長公室長さんが出席されております。
それから、地元の選出の岩手県議会議員先生方3名御出席でございます。
斉藤信先生です。
それから、吉田敬子議員です。

吉田敬子県議
よろしくお願いします。

菊池局長
それから、軽石義則議員です。

軽石義則県議
よろしくお願いします。

菊池局長
以上でございます。

懇談

菊池局長
それでは、時間も短い中でいろいろお伺いしたいということでございますので、早速懇談に入らせていただきたいと思います。まずはそれぞれどういう方々かというのを自己紹介というか、それを兼ねて今どんな取り組みをなさっているのか、あるいはそれぞれ被災されて盛岡の内陸のほうでどんなふうなことをして、どんなご苦労されているか含めて、あるいは内陸のほうから向こうの支援にどんなふうなことをやって、今どんな工夫をしているかみたいな、そういうことをまずそれぞれ1回ずつということで、実は1時間ぐらいしか時間がないので、3分とか4分とかという世界になりますけれども、まずそこでお話しいただきたいと思います。名簿順で恐縮ですが、伊藤さんのほうからお願いいたします。

伊藤万里子
震災の話になると1時間かかりますので、今日は紙芝居風に書類をつくらせていただいて、大槌町須賀町に事業所がございまして、まず今の須賀町の状態なのですけれども、今埋め立てしている状態で、建築の申請はもちろんできない状態です。工業団地のほうを役場のほうにかけ合っているのですけれども、なかなかそれも申請はするけれども、用地と言われると、ちょっと長いスタンスで待たなければならないということです。私も実は自宅兼本社事務所のほうが大町のサンルートのそばにあったのですけれども、そちらがまさかなくなっているとは思わなかったので、住むところがなくて、花巻の鉛温泉のほうに50日ほどお世話になりました。そのときに花巻の支援事業センターのほうを一度見学させていただいたのですが、その後盛岡市のほうで工業技術センターのそばのほうに新事業創出支援センターという貸し工場がございました。こちらのほうの提案がありまして、見ましたらエアコンもついているし、天井も、あと床も張ってあるということで、食品にこれは使えるということで、すぐ、いの一番で一番乗りをしまして手を挙げました。同じ大槌町でやっぱり酒造メーカーの赤武さんに隣あいていますよというお声をかけて、たまたま内陸のほうに逃げていらしたので、今、隣で助け合ってやっております。
今日は、赤坂サカスのほうに大槌町という団体で出させていただいております。去年10月には知事が来られるということでイオンのいわて三陸復興フェアにも出させていただき、あと3月には銀河プラザのほうにも出させていただきました。そのときには浜でちょうど水揚げしたばかりの生のワカメを直送させて、築地の方も買いに来るほどだったので大変喜ばれました。
小さな会社なのですけれども、生産者に近い位置で一人でぶんぶん走り回っているような形でなかなか沿岸に土地もなかったので、実は漁協の建物を100坪ほど借りていました。それが流されて御存じのとおり大槌漁協もバンザイしましたので、なかなか戻れない状態なのですけれども、ユニセフの救援物資が入っていた白いテントのほうを役場から払い下げいたしました。盛岡市内のNPO法人、復興の狼煙の方とかいろいろ声かけて融資をいただこうと思ったのですけれども、それも間に合わなかったので、もう自腹で移設して釜石の振興局から大槌役場のほうまで何とかかけ合って、今、大槌湾、赤浜の漁港前にユニセフの100坪の大きな一次処理として漁師さんたちが使っています。結局外に出しっ放しだとコンテナとか、ボイルの機械とか、塩とか勝手に盗まれてしまう。盗むというか、運ばれてしまうところもあるので、今ここではかぎを閉めてやっていただいている状態です。すごい見積もりも高かったのですけれども、樋下建設の方で大槌出身の方がいたので、いろいろ金額のほうも安くしていただいて、本当は2基払い下げているので、2基建てる予定だったのですけれども、予算の都合上、今1基だけです。皆さん赤浜のほうに行かれまして白いテントが建っていましたら私のものなので。
それで、沿岸に帰るのですかとよく盛岡のハローワークのほうには言われるのですけれども、2年後に帰ってもあの状態がどうなるのかもまだわからないので、やはり三陸の水産物も岩手の宝なので、ぜひぜひ盛岡に持ってきて最終製品にして、物流は内陸で流していけますので、あと今トレーニングして盛岡の方にも水産物ができるようにしています。あと今水回りが、貸し工場なので思ったような工場ではないのですけれども、内陸は内陸で回せるようにそういうお仕事をとるようにしていました。
私が沿岸でやるよりも内陸でスタートを切ったのは、首都圏のイオン系のお客様とか、あと三陸の水産物を待っていてくださる会社の社長がいらして、その方たちの支援があったので、やはりこれは早くスタートしないと、景気の悪い中、被災してない会社の方とも肩を並べていかなければならない、お客様を待たせるわけにはいかなかったので、盛岡市の工場で、まず連絡がとれるところがないとまず、イオンのお客様とかもファクスもそういうインフラができてないと信用してもらえなかったものですから、とりあえずではないのですけれども。やはり今の考えでは経費が2倍になっても沿岸とあと内陸にも小さくても保管ができるところを。この間5月の連休のゴールデンウイークの高潮のときにはこのテントの数メートル手前まで水が上がったので、浜の母さんたちは漁港の打ち上がった瓦れきとかのいろんなごみを捨ててから次の作業に出なければならなかったです。1年2カ月たったのですけれども、本当に瓦れきが片づいただけでなかなか思ったようにはならないし、沿岸で求人を出しても来ない状態です。今もううちは1日2便、自社便とあとお願いした便で1日2回沿岸から商品を持ってくるようにして、県漁連さんのほうも大きな倉を建てていただいたので、そちらのほうに入れて、もう二度と流されたくないので、こちらに商品を送っておりました。
一人でばたばたしていたので、ぜひぜひ沿岸にも、小さくても工場を建てたくて、今グループの補助の最後があるというので小さいところが宮古から高田のほうまでで40社ぐらい集まってやろうということで手を挙げてます。今内陸のホテルの方も御協力いただいて販売ブース、この六魂祭のために27日から沿岸でつくったものを内陸で販売しようということで、そちらに食材提供という形でうちの会社も入れてもらうことにしました。どうしても今まで取材とか受けなかったのは、内陸で始めたら沿岸を裏切ったような気がしていたのです。でも、1年待ったので、お話しができるようになって本当によかったと思っています。
済みません、長くてごめんなさい。

菊池局長
それでは、続きまして、熊谷さんよろしくお願いします。

熊谷浩昭
陸前高田で居酒屋をしていたのですけれども、自宅と店舗ともに津波で全壊、流失ということです。
3月20日、意を決して盛岡のほうで新しく再開しようと妻とこちらに来ました。当時、私は飲食業組合の支部長もしていましたので、まず内陸に行って、それも盛岡だということで、そこから高田の飲食店たちに少し立ち上がる気持ちを一日でも早く持たせようという気持ちでこちらのほうで店を構えることにしました。
常々高田のほうに戻るのですけれども、瓦れきとかがそのまままだまだ残っているところを見ると、知事さん8年計画と言いますけれども、まだまだというか、本当にいつになるのだろうということが本当にまずありますね。
盛岡は、こっちに来て、モーリオの空さんとかにお声がけいただきまして、内陸に来ている沿岸被災者の方たちをお店に呼んだり、声がけしたりして、また地域のつながりを、横の連絡を持とうということでこちらのほうでそういう活動もしています。
それで、沿岸から被災して盛岡に来てお店を構えている人たちもたくさんいるのですが、去年始めたということで支援制度も何もないというお話だったので、県のほうにも何回も聞いたのですが、そういうことはまだできていませんというお話でした。今年予算を見るとそういう支援制度の予算を組みましたという話を聞いたのですけれども、高田の商工課のほうに問い合わせると、内陸は対象外ですという話を言われたのです。自己資金というか、借入金でこちらのほうに来て立ち上がっている人たちがいっぱいいるわけですので、そういうことがこれからどうなるのかなというのが私自身含めて店を構える、飲食店関係でなくてもいろんな方がこちらのほうで開業をするということに支障がないように県のほうでもそういう制度というのをわかりやすくというか、そういうのが全然情報が入ってこないので、教えていただければなと思います。もちろん高田沿岸のほうの復興というのが、より早い復興がもちろん一番なのですけれども、まず内陸から、内陸に来て、自分たちの力をつけて、ノウハウを持っていずれ高田に帰りたいという気持ちを持っていると、高田以外の方でもそうですけれども、そういう方たちがいっぱいいるということです。
あと日々の生活の中ですけれども、陸前高田はまず平地にはもう自宅は建てられない、自宅もないのですけれども。高台移転という形なのですが、なかなかその候補地が決まらないということで、父母がまだ広田小学校のほうの仮設にいるものですから、一日でも早くうちを建てて、そこにゆっくり住ませたいという気持ちはあるのですが、その場所が決まらないというのが今すごく悩んでいます。その辺が陸前高田市、県というか、そういうのがこういうふうに決まります、町の形がこうなりますという形を早く打ち出してほしいのですけれども、なかなかそれが見えてこないというのがちょっと残念です、今のところはね。
とにかく今後ですけれども、いずれ陸前高田には帰るという気持ちがすごく大きいわけです。みんな多分地元に帰りたいという人がほとんどだと思います。だから、帰るときにまたいざ始まる町ができ上がるときに本当に帰れるのかどうなるのかということがまず先の大きな不安です。だから、とにかく盛岡で頑張って踏ん張ってやっていくしかないかなということです。こちらのほうからいろんな情報を得て沿岸のほうに持ち帰って、ともに町の復興を、内陸だから、沿岸だからということではなくて、ともに復興を見つめていきたいと思います。

菊池局長
今内陸の関係の制度という話があったので、ちょっとその辺のところ。

復興局産業再生課伊藤総括課長
中小企業さん等の施設の整備については、よく言われていますグループ補助金というものがございますけれども、対象になっていますのが確かに沿岸の被災の企業等を中心に対象にしておりますので、内陸についての施設の整備では、私が承知しているところでは、現在のところ補助としてはないのかなとは思っておりました。
あとは制度融資と低利の融資も大分出ておりますので、そういうところを活用していただくというようなことになるのかなと思っていますし、あわせて情報が少ないというお話しがございましたけれども、県のホームページで復興のサイトに中小企業を対象としました融資から、補償関係から、それから販路拡大に対する助成まである程度網羅したような制度を掲載してございますので、そういうところを見ていただいて活用していただければなと思っております。

菊池局長
今日はこういうことでどこにいらっしゃるかもわかったので、我々盛岡の振興局というのは沿岸被災地を助ける、支援するという役割があります。そういうことで、うちの担当者を何か情報が入ったらできるだけお持ちしますので、そういう形で。あとは今のお話の内陸に避難してきた方々の制度がないということなので、その辺についてはこれから持ち帰ってやるということになろうかと思いますので、まずそういうことで。

達増知事
理屈からいうと特区制度とか、盛岡市も対象になったりしていて、盛岡を舞台にしても復興のための特別な支援を受けられるということについてはあるわけなのですが、ただ盛岡はやっぱり中小企業の町でもあるので、震災前からそういう中小企業向けのさまざまな制度融資とかあるので、だからむしろ盛岡商工会議所とか、本町通商店街とかはどんな感じなのだろうな、盛岡サイドからのいろんな情報の提供というところがやっぱりこれからますます大事になっていくのではないかと思うので、そこをちょっと工夫していきましょう。

菊池局長
その辺ちょっとつなぐというか、させていただきたいと思います。

熊谷浩昭
宮城県では、そこから出た方にもあった話ですよね。岩手でもそういうのがあってもいいのではないかなという気がしてならないですね、そういうのは。

菊池局長
それでは、次に箱石さん。

箱石春菜
箱石春菜です。岩手県の山田町からこっちに来ました。今は岩手県立大学の看護学部に入学して勉強しています。今は復興支援学生寮のほうにお世話になっています。将来は保健師になって、被災地で働きたいと考えています。
済みません、これしか言えないのですけれども。

菊池局長
では、小田中さん。

小田中由美子
モーリオの空という草の根の市民運動の事務局をさせていただいております。
モーリオの空が目指すところは人と人をつなぐ、それから思いと思いをつなぐということです。形としてはよりそい商店街20、よりそい人100が、できました。もりおか復興支援センターのミニ版の地域にちらばるお店を20というふうに思って、それをよりそい商店街。支援センターまで出かけていける方たちはまだ元気かなと。出かけられない、バスにも乗れない人たちはできるだけ近所に集まれる場所があったらいいのでこれをまず1つつくりました。それでも見守り応援する人たちは足りないので、よりそい人100、出番が来たら何でも手伝う人材バンクという形で100人の応援団をつくりました。100人はいっぱいという意味です。
最初は被災された方に真っすぐ向いて、内陸にいらしてくださった方たちを元気にするということをしたいと思いました。やり始めてすぐ気がついたのは、その被災された方の周りにいる町内の方たちに気づいてほしい。一緒に元気になることができたらいいなと思いました。20軒のお店同士がいろんなふうにつながって、自分たちが先に元気になって、その地域に住んでいる沿岸からいらした方たちも一緒にいろんな活動、行事に参加していただくということです。その中に俺っ家さんも入っていただいて、3月7日に親睦会をさせていただいております。そのときは50人の参加でした。内陸の20軒のお店の方と一般の方々、それから沿岸からいらした方が20人、それからマスコミの方たちが10人、マスコミの方たちも会費を払って仲間になってという形でした。これを企画、準備し始めてすぐに熊谷さんのほうから電話がありました。自分たちもみんなに「来て」と言って、「いいか」というふうに言っていただきました。一番私たちが理想とする形でした。自分たちでつくり上げていく、元気になっていく、そんな活動を幾つかしております。
以上です。

菊池局長
ありがとうございます。
それでは、復興支援センターの細田さん。

細田 玲
もりおか復興支援センターでございますけれども去年の7月11日にオープンしております。この事業につきましては盛岡市の受託を受けまして、一般社団法人でありますSAVE IWATEが業務委託という形で事業を運営させていただいております。
特にも盛岡の場合、せんだって県で発表されました被災者の件数ですけれども、約800世帯1,600人、これは親類、知人を頼っての方々もいらっしゃいます。ですから、総務省でつかんでおります避難者登録システムとは違った数字になります。
その1,600人の方々ですけれども、先ほど伊藤さんとか熊谷さんが言われましたけれども、地元の絆を切りたくないということで約4割の方が住民票を移してないという状況です。その中でも、盛岡市としましては被災者ということとの分け隔てなく支援していこうという形で今運営させていただいております。
昨日現在ですけれども、来館者数につきましては2万人を超えました。SAVE IWATEという団体につきましては、支援物資の供給をまだやっております。復興支援センターの場合は衣類を中心に支援物資をお渡ししているわけなのですが、大体月1,000人ほど物資をまだ引き取りに来ていただいております。逆に物資だけではなく、訪問員も23年度は職員体制が7人でしたが、今年度24年度につきましては盛岡市さんのほうの増員も認めていただいたというか、逆に盛岡市のほうから人員をふやせということで、今回13名体制でやらせていただいております。
そして、先ほど小田中さんも言われたとおりセンターに来られる方々、この方々だけではなく、来られない方々を個別訪問しようという形で今年度は訪問員をふやしまして、来られない方々に適切な情報とか相談、あと経済状況の確認、そういったもので訪問させていただいております。現時点で言いますと、その訪問の中で、やはり生活困窮者がかなり出てきている。私どもSAVE IWATEとしましては、その生活困窮者に対してどういった生活支援ができるだろうかということも考えておりまして、食料支援を今検討しております。この食料支援につきましても聞き取りの中で収入、あと未就職の問題、そういった形で皆さんの家庭環境などを詳しくお聞きして、100件ほど登録させていただきまして、始めております。
そして、センター自体としましても、やはり被災者の方々が集う場所ということを心がけまして、毎週お茶っこ飲み会とか各種サロン、あといろいろな団体さんの催し物の送付物をセンターから発信するということで盛岡に避難している方々に盛岡の情報をとにかく伝えていくといったことを去年の7月11日から今日までやらせていただいております。

菊池局長
ありがとうございました。一通り自己紹介も兼ねて今困っていることとか、取り組んでいることをお話しいただきました。課題も出てきたのですけれども、今こういうところがこんな方向になればいいなということとか、あるいは自分の夢とか、将来のことも含めて何かこういうふうにしたいなというのをお話しいただければありがたいなと思うのですけれども。
また済みません、恐縮ですが、伊藤さんから順次。

伊藤万里子
去年の夏に盛岡市で工場をお借りしたときに宮舘副知事が何にもない工場を御覧になりまして、そのときにお願いしたのは何とか東和町と遠野を早くつなげてくださいということです。行ったり来たりが本当に大変なのです。そうすれば内陸からも行きやすいし、沿岸で泊まるところがなく、あちらにお客様を御案内しても泊まるところがなくて、結局盛岡に戻ってこられて、こちらに泊まってお食事差し上げて帰るという形なので、本当に早く、早くお願いしたいという思いと、これがつながると多分少し復興が早くなっていくのかなと。

達増知事
今年度内に宮守村までいくのですよね。

菊池局長
そうですね、宮守まで通じます。

伊藤万里子
そうすれば毎日のトラックが少し楽になるかと思います。
あと私も1年半ぐらいお給料もとらないで走り回っているので、去年一年は被災して大変だったという首都圏のお客様からの支援もあったのですけれども、今年はやっぱりだんだん薄れてきています。大きい会社さんの場合は国からの補助金が入っているのですけれども、私みたいな小さな会社はなかなか補助金が入らないので、盛岡市で工場を貸していただけるうちはもちこたえられるのですけれども、やはり水産業というのは小さい会社が集まって、それがなりわいになって大きな水産会社になっていったところがあるので、やはり小さいところはみんな破産していいとか、もう漁師やめるというふうになっているので、本当に沿岸の小さい会社もすくい上げていただけるような何か考えて、やっぱり小さな作業場みたいなものも集めてでも結構なので、ぜひぜひお願いしたい、早く役場のおしりをたたいていただきたいと思います、本当に。
そうしないと稼ぐ年代の人が、私の手元で働いていた女の子たちもみんなちょっと脱出しまっている状態なので、稼ぐところがないと働き盛りの20代、30代はやっぱり内陸のほうに一家そろって出てきてしまっているのが現実なので、ぜひぜひ雇用のためにもよろしくお願いいたします。

菊池局長
そういうことで、今グループ補助のほうをやっていらっしゃると。

伊藤万里子
そうなのです、それでやって、また1次産業の人と、私たち2次と、あと首都圏の3次の、築地とか持っている会社さんの社長と連携して、また水産物を流していきます。

菊池局長
熊谷さんはどうですか。

熊谷浩昭
いずれ高田自体は町全体がなくなったということで、町の形がどこにどうできるのかというのがまず一つあれですよね。JRは当面通さないと、BRTでいこうということですけれども、陸前高田の駅がどこにできるのかとか、中央道路がどこにできるのか。高田の場合は、やっぱり堤防ありきからの町の再生ですので、その前に町はこういうふうにでき上がっていくのだよということを行政のほうから明確にしてもらうと、ではいつかここに帰れるのかなという気持ちがまずみんな持てるのではないでしょうか。商店街の皆さんもそうでしょうし、今やっている、あくまでも仮設店舗ですので、その町に帰りたいという人たちがまずほとんど100%なのです。
それで自宅を高台移転ということで、その辺も行政からの造成地の負担していただくということで、それも早急にしていただきたいということです。それも陸前高田が用意ドンということではなくて、足並みがそろってないという形なのですけれども、高田自体も。造成してもうちを建ててもいいという地域もいっぱいあるのです。そのところからもう始まっていってもいいような気がするのです。ここからじゃなくてはいけないということではなくて、そこは早目に決まって、そこから建てていこうと、仮設から出て、ふだんどおりの生活に戻ろうという形を行政からも進んでもらって、そういうふうに進めてもらいたいなと思います。
私も逆算するとあと仕事何年できるかなということでもあるのですけれども、高田に帰るころには下手するともう仕事できない状態になるかなというあれなのですが、でもいずれ帰りたい。とても住みよい盛岡なのですけれども、離れがたいですね、盛岡もとても生活しやすい場所です。でも、いずれついのすみかは陸前高田と決めているので、一日でも早く復興を願っております。

達増知事
どういうふうにするかというのをかなりの部分まだ話し合ったり、検討したりしている最中で、どういう法律、制度に基づいて、どういう高台移転とか、土地区画整理とかやるという、そういう骨格は去年のうちに決まっているのですけれども、では具体的にだれがどこに移るのかというのはこれから決めるような話になっていて、だから今この瞬間には決まってないという状態ではあるのですが、多分どういう段取りでそれを決めているのかが見えてくればいつごろまでに決まるというのが見えるし、また途中で意見を言ったり、参画したりできるような仕方でやっているはずなので、だからその辺の段取りですね、これは県としてもやっぱりリアルタイムでどういう段取りでやる中で今ここまでいっているというのを全市町村について把握したいところなので、そういう情報はそれぞれの市町村が発信するのはもちろんですけれども、県のほうでも答えられるようにしておくようにしたいですね、やっぱり。

菊池局長
情報をつかまえて、何でも盛岡でキャッチするよう努力しますので。
箱石さん、将来の夢とか。

箱石春菜
私は山田町から来て、ずっと8月あたりまで避難所にいて、そういうところで心のケアがとても大切だと思って、私が働くときは結構時間がたっていると思うのですけれども、被災して、そういうところに集められていると、大人同士のいじめとかも見てきたし、ずっと何十年か後にいきなり思い出してしまって心の病を負ってしまう人もいると聞いたので、私はそういう人たちを支援していきたいと思っています。
私は今、復興支援学生寮という被災者の学生さんが無料のところに住んでいるのですけれども、いろいろ住むところも用意していただいて、いろんな支援もしていただいてとても感謝しているのですけれども、私の周りでも被災者で盛岡に来ている友達がいるのですけれども、この復興支援学生寮の存在を知らなかったという子たちが結構多くて、でも住むところも決めた後に、ああ、そういうところあるんだというのがあったので、やっぱり学生を支援する制度とかももう少し情報を流していただくと、学生だけではなくて、その学生の家族も金銭面的にはとても助かると思います。
伊藤さんともかぶるのですけれども、私のいとこの方も漁業をやっていて、私のうちももとはカキの養殖やっていたのですけれども、やっぱり漁業の方の就職先がないというのを地元にいるときに結構聞いていて、お店とかは結構山田町にもいっぱい建ってきて、少しずつだけれども、みんな頑張っているなというのはわかるのですけれども、でも漁業がまだかかるなと思うので、伊藤さんの話を聞いていても漁業の支援をしっかりしていただくと三陸はもっとよくなると思います。
以上です。

達増知事
非常に鋭い意見で、さすが岩手県立大学だなと、よくぞ入ってくれました。ありがとうございます。おめでとうというよりありがとうございます。本当にしっかり勉強して、心のケアは今被災地対策で要所要所にこころのケアセンターというのをつくって、また盛岡でも岩手医大のそういう心理の専門家の人、先生方が中心に専門的なケアがちゃんと沿岸のほうでできるようにという、今までにないようなそういう地域での心のケアを徹底して行うような体制をつくっているところなのですが、これは復興のために必要なのだけれども、復興がなった暁にはそういうのがきちっと岩手津々浦々どの地域でもそのことが発達しているという、そういうのにしていきたいので、ぜひ将来に向けて頑張ってほしいと思います。

箱石春菜
ありがとうございます。

菊池局長
被災したときは山田にいらしたのですか。

箱石春菜
いや、高校にいて大丈夫だったのですが。

菊池局長
高校……。

箱石春菜
宮古の。

菊池局長
宮古高校ですか。

箱石春菜
はい。でも、自宅は流されてしまったので。

菊池局長
そうすると避難所から高校まで通っていたと、難儀して通っていたのですよね、山田の避難所から宮古高校まで通っていたと。

箱石春菜
はい。

菊池局長
電車はないよね。

箱石春菜
バスが。

菊池局長
バスで通っていたと。

箱石春菜
はい。

菊池局長
大変だったでしょう、勉強するのが。

箱石春菜
JRが早く戻ってくれれば。

菊池局長
では、小田中さん。

小田中由美子
今の伊藤さんのお話にあったように、どんどん忘れられていくかなというふうに思いますね。盛岡の人たちも復興するのには5年、10年、20年というふうにかかると思っています。そのときに忘れないようにどうしたらできるか、思いを持ち続けていけるのだろうかということです。私は団塊の世代なのです。私の世代だけではなく、若い人たちと一緒にこの思いを共有していかなければならないと思います。私たちのモーリオの空の活動の中に、今入っていただいているのがゆいっこ盛岡さんの、20代、30代の人たち、そして復興支援学生寮から県立大学に通学している箱石さんのように若い方たちともつながっています。復興につながることを、一緒に考え話し合っていけたらいいなと思っています。それから熊谷さんがお話しになったようにみんな一斉にそろって用意ドンではなくていいと思います。先に元気になってきた人たちにどんどん走ってもらって、それを後押しする町の人たちがいっぱいいたらいいのではないかなと思います。
できるだけ早く支援する人、される人という垣根がない状態にしたいです。言葉で分けるとわかりやすいのですが、気持ちはいつも支援される側というのも嫌だろうなと思いますし、沿岸の方でも逆に支援する側に回れることもこれからはいっぱいあると思うのです。俺っ家さんに食事に行くととても元気をいただけます。内陸と沿岸という分け方ではなくともおっしゃって、本当にそうだなと思います。
私も、盛岡の商店の人も、町の人たちも、自分たちが元気になることの中に沿岸から来た人たちが入っているというのが理想と思っています。今モーリオの空で活動していることです。先ほど話しました20軒のお店同士が、つながり、今までない新しい企画、取り組み方ができました。青山町のお茶屋さんがござ九さんに来てお店の中で新茶の会を開くというような取り組みをしました。これはすごく楽しかったです。4月29日、観光のお客様も随分いらしていて、お店は中庭までにぎわって、中庭のほうでも新茶をいただく、青山町と紺屋町、200年の歴史を持ったお店と、青山町でまちづくりに取り組んでいる方と一緒に今までだったら考えられないような取り組みというかな、つながりです。それから、今度あるのは長田町の梅の湯さんというおふろ屋さんで2回目の寄席があります、銭湯寄席です。おふろのお湯を抜いて客席にします。1回目は青山町のお茶屋さんから木曜日の夜にお話いただいて、4日後の月曜日にはもう寄席ができました。そのフットワークの軽さで市民団体だったら活動できると思っています。ろうそくあるから何かに使わないですかと花屋さんからお話が来たときに、その日のうちに大槌の人とつなぎました。釜石の子供たちがそれできれいなろうそくをつくって、3.11のときにそれをともしました。フットワークの軽さをいかし、市と、支援センターと一緒に役割分担させていただきながら活動させていただいております。

菊池局長
細田さん。

細田 玲
センターの場合、盛岡に避難している方々がいるのですけれども、盛岡市内に満遍なくいらっしゃいます。やはり被災者の方々から言われると、被災者が集まる場所が欲しかったということで復興支援センターができたわけですけれども、今考えると集まる場所の中にももう一つ踏み入れて、被災者の方々が盛岡に来てよかったということで盛岡市民の方々とも交流していただきたいというふうな考えを持っております。今回せんだってですけれども、西部公民館で合唱をやっているサークルの方々とお茶っこ飲み会の方々と交流していただくといったサロンも考えておりましたし、いずれ皆さん被災者の方が集まる場所、あといろいろ愚痴を言える場所とか、そういったものをサロンとしては企画してやらせていただいておりますし、あと他の団体のサロンとか、お茶っこ飲み会もお知らせしていきたいなというふうに思っております。
あと訪問している際に、皆さんからよく言われるのが、一番の悩みは現在の悩み、将来の悩み。今の悩みというのは就職が決まらないとか、これからの生活をどうしていこうかというもう差し迫った考えです。特にも前回みなし住宅の延長が決まりましたけれども、これも去年までは本当に延長になるのだろうかと、この家賃を自分たちでこれから負担していかなければいけないのか、そういった不安を持たれている方々が多かったです。
そして、将来の不安ですけれども、やはり地元に戻りたい、だけれどもどこにうちが建つのだと。正直言って、今現況に戻ってみても全然町は変わっていない。確かに瓦れきはなくなったけれども、ここに本当にうちが建てられるのか。それであれば盛岡に中古の住宅を購入するとか、そういった、もうそろそろ決断をしなければいけない時期に来ていると。やはりそういった仮設だけではなく将来設計の問題ですね、こういったものも考えておられます。
あと私ども今、SAVE IWATEといいますと物資の提供がすごく皆さんのほうには目立つと思うのですが、やはり今でも物資が必要な方々がいらっしゃるのも事実です。ですけれども、物資の提供を続けるということは、被災地の経済効力を阻害するのではないかということもこれからは検討していかなければいけません。ただし、その物資のもう一つ持っている面というのは、当センターに出向いた際に、何かのきっかけ、復興支援センターなり、鉈屋町の番屋に行くということが出かけるきっかけということで、皆さん来ていらっしゃるというのも事実です。ですから、SAVE IWATEとしましては、そういった物資の提供についてもやはり生活困窮者に絞るとか、あとは心のケアなり、つながり物資、これはまだ全国からのいろいろなものが届いております。そういったものを被災者の方々にお届けする。やはり送った方と受け取った方々の交流もこれからは検討していかなければいけないなというのが今現時点での悩みになっています。

菊池局長
今それぞれお話しをいただいたのですが、こころの問題なんかもかなり出ておりますが、多分その辺のところを伊藤さんからまたお話しいただけないでしょうか。

伊藤万里子
私も子供が高校生だったのですけれども、大槌高校が避難所だったし、自宅もなくなってしまったので、今県外のほうの寮に入れています。やはり寮のお金もかかるので、申しわけないけれども、年金生活者とは違うので、収入がなくても出ていくものは出ていくので、やはり稼いでいかなければ、もう前に進むしかないということで。惣菜協会という社団法人があり、放射性の食物の関係で二、三カ月に1度は福島で会合があるのですけれども、そちらの福島の食品メーカーの方とお会いすると月50万円東北電力さんからいただいているそうで、あと売り上げの補てんもあるそうで、私たちは家がないけれども、1年間で百何十万円しかもらってないと言ったら、福島の人も黙ってしまいましたと言っていました。それぐらい岩手は世帯が多過ぎて本当に立ちどまるしかないなと思って、大変だと思いますけれども、よろしくお願いいたします。

菊池局長
いろいろお客さんが来て、被災者の方々も来て、それで心のケアが大事だと言っているのですが、そういう一翼を別な形で担っているのかなという気もするのですけれども、何か感じますか。

熊谷浩昭
そうですね、高田とか沿岸、気仙のほうからよくわざわざ足を運んで話に来るのです。去年の段階だとその日にこういうことが起きたということをみんな涙ながらに話すのです。そして、まず100人来れば100通りの話をして、私はカウンターに1人で立っていて、その全員の話を聞かなくてはいけないというぐらい大変な思いもしたのです。またこの話かとなるのですけれども、でもそこで吐露しているということで、また聞くというのがおれの仕事なのだなということですので。ところが、今年になってからですけれども、それが前を向いた話にみんな変わっていったのです。ああ、そうなんだなと、やっぱり1年たって心も大分落ち着いてきているなという気持ちがありますよね。
私自身もしなくてもいい生活だったよね、きっと今でもみんな本当にあれは夢だったのではないか、夢なら覚めてほしいと思っている人がいっぱいいると思いますけれども、でも心を強くして盛岡で生活しています。24年間私は高田で居酒屋という商売をしていたのですけれども、やってきたことを盛岡に持ってきてみて、盛岡で通用するのかどうかということもありまして、やってみたら間違ってなかったなと、盛岡の皆さんにはとても受け入れてもらっているので、心強く楽しく生活しております。
「陸前高田」というふうに最初に頭につけたのは、とにかくそういう強い思いを岩手県全体、日本全体、世界にも忘れられないようにということがまず最初の「陸前高田」という名前をつけたところなのですけれどもね。とっても盛岡はいい町です。

菊池局長
お話し聞いていて、箱石さん、何か話したくなったことはありませんか、何かあったら。

箱石春菜
済みません。

菊池局長
何となく話したいように見えたものですから、ごめんなさい。
もう少し時間ございますので、この辺もうちょっと言っておきたいなというようなことがあればお一人ずつ。
では、小田中さん。

小田中由美子
今熊谷さんから盛岡っていいなと言っていただいて、すごくうれしいなと思いました。もう絶対郷里に帰りたいだろうなと思いながら、でも盛岡で過ごされる時間を、盛岡っていいなというふうに、盛岡に来てよかったなと思ってもらいたいなと思って今みんなで一緒にいろんなことやりたいと思っていましたので、ありがたいなというふうに思います。
これからもいろんなふうに一緒に活動していきたいと思います。

菊池局長
どうですか。

細田 玲
まず神戸の例をとりますと、1年後に自殺率がかなり上がりました。私どもとしましても、そういったことがないようにということで盛岡市のほうからお願いされて訪問員を増員させていただいて、それで細かく訪問体制を続けていきたいなと思っております。
ただ、これからはそういったことばかりではなくて、前向きに皆さんなっておりますので、いかに盛岡に親しんでいただくかということもこれから課題として挙げていきたいと思いますし、やはり私たちもそうですけれども、ボランティア団体、これも縦割りではなく横のつながりをもっとつなげていくべきだと思っております。やはり1カ所だけでは何にもできません。例えば先ほど熊谷さんが言われたとおり、被災者の方々が俺っ家に集まるとか、モーリオの空の小田中さんたちがこういった商店街でやっていますよと。あと他のNPO団体にしても得意分野がございます。例えば子育てが得意な分野、あと老人の集いをする団体、そういった方々とももっと連携を深めてよりよい盛岡にしていただくということを進めたいなというふうに考えております。ですから、ゆいっこさんなんかもそうですけれども、被災者にどんどん、どんどん情報発信したいということがあれば、復興支援センターとしましては、郵送料は盛岡市の予算なのですが、そういったものを皆さんのほうにお届けするという役目を担って、もっと皆さんに団体を知っていただくとか、あと県の制度とか、市の制度をもっとリアルタイムに伝えられるような取り組みをしていきたいなというふうに考えております。

菊池局長
ありがとうございました。
それでは、もうちょっと時間ありますけれども、伊藤さんどうですか、いいですか。

伊藤万里子
毎週沿岸には通っているのですけれども、沿岸に行くと心折れるので、風景を見ると。盛岡に帰ってきて、いいとおっしゃっているけれども、やはり盛岡に帰ってくると今はほっとするようになったので。
岩手県というのは本当に広くて沿岸の久慈のほうとか、普代漁協さんに行ったり、あと南ですと塩竃とか気仙沼のほうに行くのもここからですとちょうど2時間なのです。東京のお客様のほうにもお呼ばれしてもやはり2時間半ぐらいで行けますので、本当に便利がいいと思いますので、広域で三陸の水産物だけではなくて農産物とコラボしてどんどん売り出していきたいと思いますので、よろしくお願いします。
あと昨日日報のほうに県産ワカメ日本一奪還とありますので、あとこれ一応来週水産庁のほうまで直接お願いして、海洋大学海洋政策学科の先生たちがグループで県内に入る予定で、JSTという今借りています工場のそばの工業技術センターの中にこういう機械をつくる部門があって、頭脳集団の方がいるので、その方たちと会議をして、どうしても手でばかりする水産物をちょっと機械化したり、いろいろ海洋大学の先生がシーズという、いいものを持ってきて、それを広げていこうということで、今日うちの会社の人が島根のほうまで飛んでいます。

達増知事
それはすばらしい。

伊藤万里子
はい。島根のほうでワカメのちょっと違う乾燥したものをつくっているので。今までワカメというのは重いとか、色が変わると言っていたのですけれども、乾燥のちょっとカットしてないようなワカメをつくってみないかということを言われていたので、軽くて、三陸のワカメを持って帰れるというお土産をひとつ今つくりたいなと思って。

達増知事
JSTは水産加工の分野というのは、本格的に支援するのは今回初めてということで、何か成果を上げたいと思っているから、ぜひぜひものにしましょう。

伊藤万里子
はい。せっかく海洋大学の先生たちも乗り気で、29、30日ごろから。これだけ沿岸がリアス式ですごく多いのですけれども、何せ岩手大学には水産学部がなかったものですから。これから本当につくっていただきたいと思います。

菊池局長
大分押してきたのですけれども、熊谷さんもし何かあれば一言。

熊谷浩昭
いいですよ、時間ないから。
まあ、いずれ高田は町全体がない本当に殺風景な町になったので、夢のようなまちづくりが逆にできるのではないかなと、まず本当に大胆な発想で行政のほうも大きい、高田にこれがというような、そういう発想を持って進んでいってほしいと思います。

知事所感

菊池局長
それでは、時間になってきましたので、最後に知事のほうから一言お願いしたいと思います。

達増知事
さっきも道路の話がありましたけれども、まず沿岸を縦に貫く高速道路、高規格道路と、それから釜石花巻のところで内陸につなぎ、あと宮古盛岡で内陸につなぐ、これも高速道路、高規格道路で、国は10年とか頑張って7年とか、こっちは5年でできないかとかやっているのですけれども、いずれ10年たたないうちにそこが整備されてくれば、まず岩手の中での沿岸と内陸の関係というのはがらっと変わると思っています。
明治維新以来、今日は実は岩手県の誕生日で、明治9年、1876年の今日岩手は今の形になったのですけれども、それ以来北上山地というのが豊かな自然ではあるのですが、開発という点からは大きな壁になっていたのがついに今度のこの復興道路が完成すればそれを克服して岩手の近代化が完成するというような局面を今迎えていまして、沿岸で隣の市にぱっと車で行けるようになるというのも今までなかったことだし、盛岡にも来られるし、あるいは仙台もうんと近くなるわけです。陸前高田は気仙沼から仙台のほうも近くなるし、そういう中で北上山地もどんどんさらに岩手らしい発展を遂げようということで、遠野とか中間にある町も頑張っているし、宮古と盛岡は隣り合って手をつないでやっていこうということになっていますし、そういう中で復興を目指して沿岸と内陸が力を合わせていくということが、まず復興がなった後、この岩手の標準スタイルとして、こんなに内陸と沿岸が一緒にいろいろやっている、そういう地域間交流が活発な県というのはほかにあるかみたいになってくる、それも今必要に迫られてそうしなければならないし、そうなると思うのです。
いろんな福祉や教育の分野もそうですけれども、経済の分野でも、盛岡のいろんな会社もどんどん沿岸のほうに行って仕事をやりやすいようなふうになっていくわけですから、そこは本当に双方向で力を合わせて、盛岡の経済力が高まることがそのまま沿岸の経済力の発展にも相乗効果で高め合っていくような形に持って行かなければならないと思うのです。最終的なゴールはその辺にあるのですけれども、そこまで持っていく段取りが今はっきり見えてこないというところが問題なので、やはりそこはもっと詰めて、市町村ごとのまちづくりの段取り、プロセスがもっと、またそれは陸前高田や釜石、大槌の今年どうなる、来年どうなる、再来年にはどこまでいっているというのは、盛岡市民の皆さんにもやっぱり知ってほしいことで、わかれば、ではうちも店出そうかみたいなことを盛岡側の会社が考えたりもするわけですし、そういう意味で、情報のやりとりがまだまだ足りない、箱石さんもさっきそういう話もしていましたけれども、情報についてはやっぱり県が貪欲に市町村の情報や、民間の情報、あとNPOなど団体の情報もいただいて、まず情報として見えてこないと実態がイメージついていくわけのですから、イメージも、計画も、情報も何にもないところで物ができたり、直っていったりというのはしないわけで、まず初めにイメージとか、情報とか、計画があってこそ実際の物や建物が動き出すので、そういう意味ではイメージ、情報、そして計画というところを、やっぱりそこは県が頑張って先に、先にとつくっていって、それで市町村の現場の復興もきちっと進んでいくようにしていきましょうということをしなければならないということがよくわかりました。
今日は本当に短時間であれだったのですけれども、これで終わりではありませんので、こういう形で同じメンバーに集まってもらうというのはないかもしれませんけれども、またいろいろな形で私と直接、あるいは県のそれぞれの担当の者が一緒に復興を頑張らせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。ありがとうございます。

閉会

菊池局長
それでは、今日は本当に貴重なお話をいただきまして、これからも手に手をとって頑張っていきたいというふうに思いますので、どうぞよろしくお願いします。本日はどうもありがとうございました

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