「がんばろう!岩手」意見交換会(平成24年9月11日 田野畑村)

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ページ番号1000890  更新日 平成31年2月20日

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写真:懇談会の様子1

日時

平成24年9月11日(火曜日)14時00分から15時00分

場所

アズビィ楽習センター

出席者

  • 参加者(敬称略)
    泡渕 正(北山崎白花シャクナゲ荘 代表取締役)
    小野寺 万壽榮(カンパネルラ友の会 事務局長)
    竹下 敦子(NPO法人ハックの家 施設長)
    畠山 ヒサヨ(マルワ鮮魚店 店主)
    吉塚 公太郎(株式会社田野畑山地酪農牛乳)
  • 県側
    達増知事
    菅原沿岸広域振興局副局長
    稲葉秘書広報室長

開会

菅原副局長
お待たせいたしました。ただいまから県政懇談会「がんばろう!岩手」意見交換会を開催いたします。
本日御出席をいただきました皆様には、御多忙のところお越しくださいましてまことにありがとうございます。心から感謝を申し上げます。私は、本日の進行役を務めさせていただきます沿岸広域振興局副局長の菅原と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

知事挨拶

写真:懇談会の様子2

菅原副局長
それでは、開会に当たりまして、知事から一言ごあいさつを申し上げます。

達増知事
皆さん、こんにちは。今日は県政懇談会「がんばろう!岩手」意見交換会に御参加をいただきましてありがとうございます。県議会、そして田野畑村からも参加いただきましてありがとうございます。
県政懇談会「がんばろう!岩手」意見交換会、この県政懇談会というのは昔からあったのですけれども、この「がんばろう!岩手」という題でやるようになったのは東日本大震災津波以降でございます。今日は9月11日、発災から1年半でありまして、被害を受けられた方々に対しまして、皆様に改めてお見舞いを申し上げたいと思います。
沿岸の被災地においてそれぞれの地域で、またそれぞれの分野で復旧・復興に携わり、またリーダーシップを発揮している皆さんの現場の声を伺って、県の復興事業推進、またよりよい復興事業を進めていくことに役立たせていきたいということでやっておりまして、今日も皆さんから御意見を伺って、県の復興に役立てていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございます。

菅原副局長
ありがとうございました。
それでは、本日御出席の皆様を御紹介させていただきます。名簿の順に御紹介申し上げます。
北山崎白花シャクナゲ荘、泡渕正様です。

泡渕正
よろしくお願いします。

菅原副局長
カンパネルラ友の会事務局長、小野寺万壽榮様。

小野寺万壽榮
よろしくお願いいたします。

菅原副局長
NPO法人ハックの家、施設長、竹下敦子様。

竹下敦子
よろしくお願いします。

菅原副局長
マルワ鮮魚店店主、畠山ヒサヨ様。

畠山ヒサヨ
よろしくお願いします。

菅原副局長
株式会社田野畑山地酪農牛乳、吉塚公太郎様。

吉塚公太郎
よろしくお願いいたします。

菅原副局長
県側の出席者でございますが、達増拓也知事でございます。

達増知事
よろしくお願いします。

菅原副局長
それから、秘書広報室長の稲葉比呂子でございます。

稲葉室長
よろしくお願いいたします。

菅原副局長
なお、本日は田野畑村の御担当者の方、それから県議会議員の城内愛彦先生にもお越しいただいております。

懇談

菅原副局長
それでは、早速懇談に入らせていただきます。座って進行させていただきます。
初めに、前半ということになりますが、自己紹介を兼ねていただきまして、お一人4分ぐらいということで、今回の震災でどのような生活とかに変化があったかということと、その変化を受けて、どのように取り組んできておられるかといったことを震災から現在までのところを中心にお話しをいただきたいと思います。
それでは、名簿順にお願いしたいと思いますので、泡渕さんからよろしくお願いいたします。座ってどうぞ。

泡渕正
ふだん座ってばかり話していますので、済みません。名簿順というか、あいうえお順で、恐らくそういくのではないかなと思いまして、何から話したらいいかちょっとわかりませんけれども、今副局長さんがお話しされたように、去年の3月11日以来の今日までの経過といいますか、あの時計を見ながら3分ぐらいで終わりたいと思いますが、自分のやっている仕事は北山崎で民宿というか、旅館と食堂業をやっているわけなのですが、昭和48年に自分のこのお仕事を始めまして、それでちょうど昨年が40年目を迎えようとしたときにこの地震がありまして、そのときには結構暖かい日だったものですから、地震の来たときに、同時に電気も消えて、そのときに結構天気よかったものですからお客さんいたのです。それで、建物がもしか天井から落ちてきたりしたらけがすると思って、とにかく広場のほうに集まってくださいということで、そこからお客さん方に避難していただいて、そのときにラジオもつかないものですから、村のほうの防災無線早くこれ何とか伝えてほしいなと思いながら、絶対これ地震の状況は絶対津波が来る、もう100%来ると思ったのです。そして、思い出したのが車のエンジンをかけてラジオを聞けばわかるということで、それでラジオかけてみたのです。そうしたら、地震津波の予報が3メートルの高さと言いました。ところが、3メートルの高さといいますと、この海域の海の高さというのは1年のうちでは3メーター、5メーターという波は私は10回も20回もあるわけです、外海なものですから。だから、それだと大したことないのではないかなと自分も思いながら、自分もサッパ船を持ってアワビやるには漁業組合に入ってやっていますので、それでそのぐらいの波だったら大したことないなと感じましたけれども、やっぱりそれでも地震の仕方が、海の底から来るような感じだから、これ間違いなく3メーターや5メーターではないのではないかなという感じでいました。
そこから始まって、お客さんも帰っていくときに道路が北南の道路がありますね、久慈地方、宮古地方方面に帰るお客さんがそこで道路が不通になったものですから帰れないということで、晩まで陸の孤島みたいになってしまって、そこで待っていただいて、それで45号線に出る山道があったものですから、そっちのほうに案内して帰っていただいたのですけれども、そうやっているうちに自分たちのお客さんというのは、そのときにも予約がありまして、お客さんにこういうことが起きたよという連絡をする電話も不通なものですから、それで3月の末まで電話もちゃんと聞こえないし、受けられないし、その状態が続きまして、その中で、やっぱり生活するにお客さんも来られない状態ですから無収入なわけです。ただ、来てくれたのはありがたくも、歩いてまでも報道機関の方々ですね、テレビ局さんとか、それから新聞の記者の方々、その方々が歩いても来てくれて、それをインターネットで流してくれたのです。そうしたら、シャクナゲ荘の泡渕のところに電話したけれども、全然電話が通じないという方々がそのインターネットの中で、ああ、大丈夫だったんだというのがわかったようです。それは4月になってからはがきとか手紙なんかでお客さんが無事だったということをインターネットの中で見て安心しましたと。
それで、あとはうちの場合には宿泊が主なものですから、この田野畑村には宿泊施設は羅賀荘を初めとしてかなりの人数を収容できるわけですけれども、自分たちのように40人足らずの宿泊宿というのはこの村には3軒ぐらいしか残らなくなったわけです。その中で、例えば業者といいますか、作業をしてくれる方々とかの予約がありまして、何とかその中で今までやってきたわけですけれども、それで自分たちとすれば今後のできたものはもうしようがない、それから新聞の中でも出ていましたけれども、自然のものは災害には強いけれども、人がつくったものは弱いものだなというのが記事の中に出ていましたけれども、まさにそのとおりだなと思って、今でも宿泊の方が来たときには、靴は靴箱に入れないでこのまま玄関に並べてくださいと。もしも地震が来たときにはこの靴のあった場所を覚えていただいて、この靴を持って外に出るように案内しますのでという、そういう形で、もしも次に来た場合にはそういうふうに避難していただくということで、非常口とその辺を厳重にしてやっております。
この辺で。

菅原副局長
ありがとうございました。
それでは、次に小野寺さんお願いいたします。

小野寺万壽榮
やっぱりだんだん緊張が高まってきました。私は今三陸鉄道の田野畑駅で仕事をさせていただいております。震災の前にもそこで仕事しておりまして、そのとき3月11日はちょうど休みの日だったので、隣の島越地区のほうにちょっと用事があって行っておりました。
さっき泡渕さんも言われましたけれども、物すごい揺れだったのですけれども、私の耳には有線も届かなかったし、消防のサイレンも聞こえなかったし、軽トラックで行っていたものですから、軽トラックのラジオも壊れていてわからなくて、外の電線は物すごく揺れているし、とにかく周りに人が見えなかったので、すごく不安で、人のいるほうに行こうと思って市場のほうに行ったのです。そうしたら、もう水門が閉まりかけていまして、消防の人が手招きしてくれて、そこをすり抜けて、アイスバーンみたいに揺れる中をとにかく家に戻ろうと思って、それで何とか私は助かりましたけれども、来る途中にいた同級生とかも亡くなったりしているし、家に戻れたのは運がよかったのだなと思っています。
家は駅の裏の高台にあるのですけれども、家に戻ったらすぐ津波が来まして、そこら辺みんな流れていくのが見えたのですけれども、うちでは船とか倉庫も全部流れたし、あと1週間後ぐらいにとろうと思っていたワカメも結局だめで、ワカメもやめることになりました。線路がないわけですから、私も仕事がなくなって、あと夫の実家のほうは大規模半壊になったのですけれども、一生懸命片づけなんか頑張っていた義母も倒れて、今はもう家に帰って来られない状態です。
羅賀地区ではその後、震災の後にすごいばたばた人が亡くなって、それが年明けまでずっと続きました。みんな精神状態がまともではないような感じになってきて、本当に耐えられないという感じでした。津波が来て、ここのアズビィに来て避難生活したのです、3月末ぐらいまでずっと避難生活で、それこそ経験のない、段ボールの上に寝たりとか私たちもしましたけれども、そういう生活の中ですぐにニュースで三鉄が走りましたというのを聞いて、光がぱっとなって、すごいそのことを決断してくれた社長なのだか、県なのだか、どなたかわかりませんけれども、みんなで拍手喝采でした。
そのときに私の中では勝手に、駅が再開したら、そこに戻ってまた仕事がしたいなとも決めていましたので、実際に4月1日に田野畑まで汽車が通ったということで、また戻ることができまして、今また仕事を続けていますけれども、最初は片側からだけのお客さんということで、どのぐらいお客さん来るのかなということでちょっと不安もありましたけれども、いざあけてみたらものすごいお客さんに来ていただいて、本当にすごいのです。5月の中ごろから私は大型バスだけ駅に来た台数をつけるようにして、つけ忘れもありますけれども、きのうまでで176台来ているのです。そうしたら、ざっと考えると多分田野畑の人口は超えているのではないかなと思うのです。その方々がすごく来てくださって、津波はどんなでしたかとか、どこまで来ましたかとか、頑張ってとかと言ってくれて、いやあ、すごいもんだなと感謝、感謝です。
八戸のほうからも直行便が来ていますので、八戸方面からの個人客の人も多いですし、今回田野畑が終点ということで、宮古へ行くお客さんも田野畑でおりるわけですし、一たんおりて代替バスに乗りますね。それから、久慈に行くにもそのとおりで、必ず田野畑におりるわけで、お客さんの行ったり来たりがかなりあるのです。今は一日一日を多いお客さんたちを何とか見送って、気持ちよく見送ってということで奮闘している状態ですけれども、いろいろなことがあって今があるわけですけれども、とにかく来ていただいているお客さんたちを何とかまた田野畑がこんなふうに元気になりましたというように言っていただけるようにしたいなと思っています。
それで、そういう団体の観光ツアーみたいな感じで来る人もいるのですけれども、印象にあるのは田野畑にゆかりがあって、前に来たことがあって来たとか、例えば民宿に泊まったことがあるけれども、そこのご夫婦は今どこに行きましたかとか、羅賀荘なら羅賀荘に泊まって、係のだれそれさんはどうなりましたかとか、そういうふうに田野畑の前に仕事をしたときがあるとか、そういう方がすごく心配して来てくれているのがすごく印象的でした。今田野畑でレールが止まっていますけれども、これから2年後全線開通でつながるわけですから、それに向けて少しでもお役に立てるようにと思って、今頑張っています。

菅原副局長
ありがとうございました。
それでは、竹下さんよろしくお願いいたします。

竹下敦子
NPO法人ハックの家の竹下といいます。私たちの仕事は、福祉施設をやっていまして、障がいを持った方たちが現在25人通所してきています。震災後から今のところなのですけれども、震災の当日大体40名弱ぐらい避難してきていまして、そこから6月ぐらいまで平均大体20人ぐらいずつずっと泊まっていたような感じだったのですけれども、そのときにちょっと私たちの反省も含めてなのですが、こんな大きな震災が来るという構えが全くなくて、福祉避難所の指定を全然受けていなかったというか、そういう準備をしていなかったので、食べ物の確保とかそういう部分でもうちょっとしっかり対応できたらなという反省がありました。
今現在なのですけれども、震災を通じて、障がい者の施設だったので、障がいを持った子供たちの支援ということで、山田町から久慈市までの障がい持った方たちに声をかけて夏休みとか長期休暇の間の過ごす場所の支援をしていまして、こんなにこの沿岸部には、特に北のほうなのですけれども、障がいを持った子供たちを支える事業所がなかったのだなということを改めて実感していまして、送迎に山田までなので1時間半ぐらい片道かけて行っていたので、送迎で1日終わってしまうみたいな部分もあったので、もうちょっとその辺があったらいいななんて思っていました。
障がい者を支えているうちに、ことしに入ってから障がいを持っていないお母さんたちから、学校が終わった後に過ごす場所はないのだろうかという話がありまして、私たち障がいを持っている方たちの生徒は持っていたのですけれども、学童とかそういう事業は持ってなかったので、はてどうしようかなと思いつつ、今現在に至るのですが、事業を持っていないことから、お母さんたちがサークルをつくって、そのサークルに私たちが場所とスタッフがボランティアをしてお手伝いするという形で今進めているのですが、子供たちは楽しく夏休みとかは多い日だと子供たちが40人で、うちの利用者が25人という形でとってもガチャガチャした感じではいるのですが、楽しく来ていますというお母さんたちの声に励まされて続けていっているような状態です。
うちの父の話なのですけれども、水産加工場が震災で流されてしまって、障がいを持った方たちの働き場所がなくなってしまったので、この辺の解消がまだちょっと大きなめどは立っていないのですが、ちょっとずつパン屋を大きくしたりとか助成いただいて。あと国庫補助とかいただいてパンのかまをいただいたりとかして少しずつ改善してきているような状態です。

菅原副局長
どうもありがとうございました。
それでは、畠山さん。

畠山ヒサヨ
私は、羅賀で魚屋をやっていました。津波できれいになくなってしまって、それで本当に皆さんに支援をいただくばかりで、私が支援をするというのは全くなくて、今日ここに来るのも悪いなと思うような気持ちで来たのですが、地域で震災後、店がみんな流れてなくなったので、店を出してほしいと自治会のほうから依頼されて、ちょっと私も迷ったのですけれども、でも私もこのままいたら自分もだめになるし、やれるだけやってみようかなというので引き受けて酒屋さんと2人で駅舎があいていたので、駅舎を借りて始めたのです。その売り上げというのは、商売になるようなものではなかったのですけれども、地域の皆さんが喜んで来てくれば皆さんで寄り添ってお話をしたり、そういう場になれたのが私もすごい収穫だったかなと思って、6月から11月までやりました。そして、11月に仮設店舗を申し込んでいたので、できて、そっちに移ったのです。そして、そっちに移ってからもお客さんが来ればみんなで話をしたくているので、スペースをもうけてテーブルと椅子を置いていて自由にお茶を出したり、来た人たちが和やかにやっていっていただけるようにやってきています。そんなところぐらいですかね。

菅原副局長
ありがとうございました。
それでは、吉塚さんお願いします。

吉塚公太郎
私は、田野畑村の山のほうで放牧酪農をやっております。うちの放牧酪農というのは、輸入物を一切使わないで山の野草と、あと化学肥料も使わないで自給のえさで牛乳を搾っております。
3月11日の震災後なのですけれども、僕は農場内にいまして、農場内で仕事をやっている最中にすごい大きな地震が来て、トラクターを車庫のあたりに、入り口にとめていたのですけれども、すごいトラクターが動き出してしまうのではないかと思うくらいすごい大きな揺れで、そしてやっぱり山の音もすごいゴーッという信じられない音がして、本当にどうなってしまうのだろうという気持ちでした。私も地震がおさまってから、消防団にも入っていたので、45号線沿いに出て消防団のみんなで宮古方面から来る車を普代方面、久慈方面に行かないように山のほうに誘導したりという作業をやりました。それを終えて、消防車で羅賀地区の方向に行ったのですけれども、言葉にできないくらい、悲しくなってくるくらいすごく信じられない気持ちだったのですけれども、3週間ぐらい瓦れきの撤去作業とか貴重品捜しのほうをやらせていただきました。
その後なのですけれども、僕は酪農家の目線からしか言えないのですけれども、酪農家がまず大変だったことは、停電になってしまったことと、あと燃料不足です。まず、停電になってしまうと酪農家というのは牛のおっぱいを搾るのに電気をかなり使います。あと牛乳を冷やしたりするのに電気を使うので、まず今日搾るのにどうしたいいのだろうという状況でした。うちは規模が小さいところだったので、15頭ぐらいいて、手搾りでなんとかやったのですけれども、大きい農家さんだと建設会社から発電機を借りてきて交代で1軒1軒回って搾ったり、搾るのに1日かかるような状況でした。
あとは燃料がなかったということで、農協のタンクローリーが来なくて、それで1週間以上搾っては牛乳を捨て、搾っては牛乳を捨てという感じで、農家全体的に希望が薄れてきているような状況だったのです。それで、牛乳の乳量が出ないようにえさの質をちょっと落としたりしたことで、今度はおっぱいの病気が出てしまって、乳房炎というのですけれども、そういうのでかなり牛を淘汰せざるを得なくなったりという、酪農家は結構きついなという部分がありました。
それと1週間ぐらい、2週間目ぐらいたって大分農協も動くようになってきたのですけれども、今度大変だったことというのは、放射能の影響で牛の家畜市場とか屠畜場がとまってしまうのです。県内に1カ所ぱっと出てしまうと、岩手県内全部ストップされてしまうために本当にみんな出したいときに出せなくて、それこそ廃牛なんかだとただ飯を与えてしまうような感じで、えさだけはどんどん減ってしまうのです。うちなんかだと1年の収穫量の草を計算して、その草の量に合わせて牛を淘汰するのですけれども、牛の流通が悪くて、えさが本当に足りなくなってしまって、出さなくていい牛まで出さざるを得なくなってしまって、ことしは搾る牛がいなくてちょっと大変だなというような状況なのですけれども、今思うのは、放射能がこの地域で出ましたとなった場合は、出た地域だけをストップして、出なかった地域は何とか動かしていただけたらなという思いも農家全体ではあります。
ちょっと緊張し過ぎて何しゃべったらいいか、何かなくなってしまったのですけれども。

菅原副局長
後半もございますので。ありがとうございました。
そういうことで、生活の変化あるいは現在の取り組みのお話いただきましたが、これまでのところで知事のほうから何かご質問とか。

達増知事
それぞれ改めて震災の被害、大きい被害を受けられたこと、また風評被害とか、後に続く被害を受けられたこと、本当に大変だったと思います。また、その中でさまざまほかの被災者の皆さんあるいは地域の皆さんを助ける、そういう助け合いの動きが出てきたことは非常に頼もしいと思いますし、またそういう中で三陸鉄道も一役買って地域に希望が出てくるような格好で早期運転再開とか、あとは3年以内に全面復旧とか、そういうことを決めて動くことができたのは改めてよかったなと思います。
やはり田野畑は北、南、海、山の交流の結接点であるなということを改めて感じまして、今回の大震災ということでいろんな復興事業の関係で外から来る人もいるし、また今まで縁あった方で、改めて今回この田野畑がどうなっているかというのを見に来られる方がいらしたり、そういう古いつながりをもう一回よみがえらせたり、また新しいつながりをつくっていったりとか、そういう形で着実に直すべきところを直しながら、その先の田野畑村の活性化につながるような面も出てきているのかなと思いました。

菅原副局長
それでは、次に後半のほうに入ってまいりたいと思いますが、また1人4分程度で皆様が今後取り組んでいきたいと思っていらっしゃること、あるいは震災を受けた田野畑村を今後どうやって発展というか、復興させていきたいかというこの先のことを中心にお話をいただきたいと思います。
それでは、また名簿順で泡渕さんからよろしくお願いいたします。

泡渕正
起きてしまったことに対して、これはしようがないとしても、それではその起きてしまったことを、次に起きたときのことを今度は防御したり、考えていかなければいけないなというのが今の自分の中でかなりそこのところ強く感じております。
それで、ひとつ例えば漁業界においては自分もサッパ船を持ってウニやアワビをとるわけですが、この津波が来る前に思っていましたけれども、もし地震があって津波が来るというのは、早いときには奥尻島が5分で来たという話があるのです。それで、今現在も地震がたまに続いているわけですが、そのときにこの村にかかわらず、久慈でも、宮古でも、田野畑村でも、ひとつこれから何とか考えてほしいなと思うのは、操業中にもし地震が来た場合、砂浜にいたときには地震の感じがないそうです。これは今回田野畑村の北山というところの浜で生徒たちが清掃作業をしていて感じたことなのです。岩が落ちてきて、初めて地震が来たということがわかって、直感的にあの山に逃げろということでみんな助かったわけですけれども、そういうときに例えば村にでも、県にでも、国にでもお願いしたいことは、例えば三陸海岸に漁業者が、男衆がみんないなくなったなんて、そういう報道がもしその津波によって起きた場合は、やっぱりそれをどういうふうに直すというか、避難するかといえば、地震が来たときに津波警報を出す前に、地震が来たからもう体制をとってくださいというのを海のほうにスピーカーでお知らせすることができたらみんなが対処の仕方ができるのではないかと思うのです。例えば沖に逃げるにも100メーターの水深の場合には津波を避けることができるそうですから、その場合はウニをとっていても、アワビをとっていてももうその無線がそういうふうに放送したら、沖に全員逃げろとか、潮が引いたときにはもう間に合わないわけです、陸にも戻れないわけです。だから、もしもできたらそういうことがあったらいいなということをまず個人的には考えております。
それと今言った放射能の測定ですね、内陸のほうの、例えば牧草地帯とかいろいろあって測定しているようですけれども、この前しばらくたってから八戸沖でタラのセシウムとか、あれが基準値を超えるものがあったということなのですが、そのときに例えば自分たちが今からウニをとった、アワビをとったときに、または魚をとったときに漁業界のほうのその地域、地域はまだ測定がされていないと思うのです。それで、これを例えばとったらどういうふうにして早くそれを測定して安全性を確かめて自分たちが観光客にも、また自分たちが食べる場合も判断したらいいかというのを早く決めたいわけです。その辺の例えば測定する機械というのですか、これが漁業界のほうに貸し出しがあるものか、または農業界にあるものか、この辺を県のほうからも指導していただいたり、村のほうからも指導していただきたいのが個人的な意見としてあります。
その2点が今後の自分の希望というか、要望というか、話になります。以上です

菅原副局長
ありがとうございます。
それでは、小野寺さんいかがでしょうか。

小野寺万壽榮
私は、三鉄の友の会のほうの事務局もやっているのですけれども、震災の前は三鉄さんでいろんなイベント列車ですか、企画列車がありまして、田野畑はちょうど宮古と久慈の中間点ですから、そこでお客さんがおりていろいろもちつきみたいなことをやって、お月見列車とかやったり、浴衣で踊りを踊ったり、浴衣列車とか、いろんなことをやって友の会も盛り上げてお手伝いをさせていただいたり、あと八戸から来るうみねこ号には田野畑の牛乳とか、特産品を配ってPRしたりとか、いろんなことをやっていました。ただ、今回の震災で会員の中には、やっぱり家が流された人もたくさんいますし、直接津波ではないのですけれども、亡くなった人たちもいて、そういう関係で今までどおりの活動がちょっと今はできない状態で、これからどういうふうになるかなという、そういうところですね。
あと私は漁協の女性部のほうにも入っていって活動しているのですけれども、前は加工施設というのをつくっていただきまして、つい震災のちょっと前だったのですけれども、つくっていただいて、サケのすり身を味をつけたばかりのあれを真空パックにしたりとか、ワカメの茎の煮付けとか、そういうのもつくったりとかしていい感じでいたのです、一生懸命やろうという感じでいたのですが、それらの施設も全部一切、せっかくそろえたのに流されてしまって、それもできないで、今度4月1日に三鉄が再開したということで、地元の漁協婦人部のほうからは地元でとれたワカメの乾燥ですね、カットワカメとか、ふのりとか、今の季節、今のシーズンでしたらコンブですけれども、そういうのを出していただいて、駅で販売するようにしていますけれども、それがお客さんにはすごく好評で、特にも漁協婦人部というシールも張ってありますから、これ買っていきたいです、お土産にしたいですというような感じで、すごいそれが受けて買っていただいています。そういうふうに漁協の婦人部としても活動範囲が狭まっているし、半分以上仮設のほうに行ってしまって、地区に人がいなくなったわけなので、なかなか活動、何をするにしても難しい面があるように思います。
それから、個人的にはことしに入ってからはたくさんいいことがありましたし、気持ちは大分明るくなっています。駅に関しては、さっきも言ったように田野畑駅でおりるお客さんがたくさんいるわけですから、言葉はちょっと悪いのですけれども、これをチャンスというのか、汽車の本数も時間があるわけですよね、日中だと2時間に1本とかとなってしまうわけなので、その間利用して、時間を利用してお客さんの要望もあるのですけれども、ちょっと歩いてどこか何かないですかとか、北山崎とか、そういうのはバスで行かないと、バスとかデマンドタクシーでないと行けないので、ちょっと歩いて何かないですかみたいなことを震災の前からよく言われていたのです。私が個人的に思うのは、駅から海のほうのルートに共同倉庫が建っているのですけれども、そこら辺を何か体験というか、例えばワカメの塩蔵ワカメの芯抜きをちょっとお手伝いをして、それをお土産に差し上げるとか、あと婦人部の何か加工品のあれをちょっとお手伝いをしたりとか、作業を見学するとか、何かそういうのを絡めてお客さんがちょっと興味を持ってもらえるように、そういうのをつなげたほうが、せっかくすごい人数のお客さんが田野畑におりているわけだから、それを何か利用するような、何かがよくわからないけれども、そういうのがあったらいいのではないかなと思っています。
全線開通する26年の4月ですけれども、多分私の記憶では三鉄の30周年ではないのかなと思うのです。それをすごい私は楽しみにしていますので、今みんな元気を出して頑張っていますので、そのときまでにさらによくなっていればいいなと思います。

菅原副局長
どうもありがとうございました。
それでは、竹下さんのほうからお願いします。

竹下敦子
自己紹介の部分とかぶってしまってあれなのですが、今現在継続中で、これから大きくは3つ頑張っていこうかなと思っていまして、1つは障がい児のほうの児童デイサービス、野田、普代、田野畑……。岩泉にはあったと思いますが、にはないので、ないサービスはつくっていこうという感じで県の皆さんにもご協力していただいて充実させていきたいなというのが1つ。
あと障がいのない子供たち、特にも学齢期、田野畑では保育園とか児童館とかは結構充実していて、私の子供も保育園に行っているのですけれども、とても助かっています。その後に小学校に入って1年生で保育園とかから上がった子供たちが学校を終わってぽいっと家でたった一人で留守番できるかといったら、できないのではないかなというのがありますので、その辺をしっかり私たちだけではなくて村とか、できれば県としてもきっちりと子供たちが安心して放課後生活できたり、お母さんたちも安心して仕事ができるような環境になっていけるように頑張っていけたらいいかなと思っています。
もう一つが、ちょっとつい最近から始めたことなのですけれども、元気なおばあちゃんたちの働く場所とおしゃべりの場所とがあったらいいかなと思っていて、自分の母とか自分の祖母とか、もう亡くなったのですけれども、考えてみたら沿岸の人たちというのは手仕事をしながら話をしていたのではないかなと思って、だからただの談話室みたいなところで話をするのではなくて、ちょっと仕事をしながら話をするような場をつくれたらいいかなと思っていて、漬け物の工場をやってみようかなと思っていて、おばあちゃんたちと障がいを持った方たちと一緒に仕事をしながらやっていける場ができたらいいかなと思っていました。
最初にも話したように、やっぱり震災前からもそうだったのかもしれないのですけれども、福祉的にはサービスが意外となかったのだなということに気づいたので、その辺の充実が図っていけたらもっと楽しく、お年寄りから子供まで田野畑にずっと生活できるのではないかなと思っていました。その辺をこれからしっかり頑張っていけたらという決意ですけれども、いいかなと思っていました。

菅原副局長
田野畑の仮設住宅団地の集会所で女性の方々がミサンガづくりされていましたね、中学校のところの仮設なのですけれども。県議会議員の視察があった際に、たしかそれ紹介されて、みんなで買い求めたりしたことがありましたね。ありがとうございました。
それでは、畠山さんよろしくお願いいたします

畠山ヒサヨ
私の仮設の店舗なのですけれども、ここが2年の契約でお借りしていまして、この2年過ぎれば建てる場所が今のところ羅賀地区にはなかなか見つけられなくて困っていました。どこにどう移転したらいいかな、それでもやっぱり羅賀地区にお店がなければ住んでいる人も多分困るかなと思って、羅賀からも離れたくないし、2年後を踏まえて今どうやったらいいかなと模索している最中なのです。そして、羅賀地区にもお店とかももっとふえて、明かりをともして皆さんが集まったり、そういう地域にできたらいいなと思って、三鉄も4月から走っていて、結構仮設店舗のほうにもお客さんが寄ってくれて、何かしら買ってもいただいていますし、私も駅にいたときに全国の皆さんからすごく励ましのお手紙とか、駅に来た人たちにお茶菓子に出してとかお菓子とかもいっぱい送っていただいて、来たお客さんにお茶やコーヒーと一緒にお茶菓子も出して、和気あいあいと話せたりしたので、やっぱり地域が明るくなるにはお店もなければならないし、もっと食堂もあったし、パーマ屋さんも床屋さんもあったので、もっとそういうお店もふえるような地域になればいいなと私自身がそう考えています。そうしたら、地域ももっと明るくなって、戻ってくる人も一人でも二人でも多く来てくれるような、そんな地域にしてほしいと思って願っています。なので、いつまでも仮設店舗にはいられないのですけれども、そこの場所でなくてもまた皆さんの役に立てるようなお店を出していけたらと今思っています。
以上です。

菅原副局長
畠山さんの上のほうにいった黒沢山というのですか、あそこ大分住宅の団地の造成が進んでいるようですけれども、あそこは店舗用地なんかも役場のほうでは考えているのでしょうか。

畠山ヒサヨ
商工会さんのほうから四、五日前に商業施設のようなところができたら入りますかというような声がかかっています。

菅原副局長
では、それにどう返事したらいいかどうか今迷っていらっしゃると。

畠山ヒサヨ
私とすれば上のほうに上がってくれば、下にお店がなくなるので、できれば下のほうにいたいのですけれども、場所を見つけられなくて、今それで悩んでいます。

菅原副局長
わかりました。ありがとうございます。
それでは、吉塚さんお願いいたします。

吉塚公太郎
僕は復興道路のことでお話しをしたいのですけれども、田野畑村も復興道路でそっちこっち農地が当たっていまして、農家さんがかなり頭を抱えております。うちもそれで6ヘクタールの牧草地が浜岩泉のほうにあるのですけれども、復興道路で手放さなければならないような状況で、だからではないのですけれども、農家の希望としては農地をよけてやってはいただけないのかなと。
あとやっぱり復興道路というのは本当に必要なのかなと思っていました。というのは、復興道路にかける予算というのは見るとすごくとんでもない、信じられない金額なのですよね。もしそんな金額があるのだったらば、それこそマルワさんではないですけれども、金銭的に力のある方というのは土地確保して家をぱっと建てられるのですけれども、やっぱり金銭的になかなか一歩前に進めない方もたくさんいるので、復興道路よりは先にそっちを優先したほうがいいのではないかなと。そして、復興のほうも先にやったほうがいいのではないかなと僕的には思います。
あと泡渕さんからも出ましたけれども、放射能の検査のことなのですけれども、農協とおつき合いしている人は農協のほうでただで調べてはもらっているのですけれども、農協を離れた農家とか、あと食品業者なんていうのは自分で検査料を払って検査しているわけですけれども、検査料が細かく調べれば調べるほど1回に1万円、2万円とられて結構厳しいのです。それで、消費者からは毎月調べろと結構言われるのですけれども、やっぱりその辺個人的にそこ検査料まで払わなければならないのかなというのが全体的にみんな思っています。あとやっぱり調べやすいように、それこそ地域に検査のそういう機械を置いてはもらえないのかなと。やっぱり盛岡まで行くのは結構遠いので、そこもちょっと考えていただけないかなと思います。検査するのは、それは国から補助を出して、検査、調べてもらう側は負担しないで済むような、そういうのを考えていただきたいなと思っていました。
以上です。

菅原副局長
検査機器というのは宮古合庁にも1つありませんでしたか、農林センターだかに。

吉塚公太郎
検査機器は宮古にもあるのですけれども、牧草とかも結構調べているのですけれども、設定が高いのだか、細かく調べられないようなことを……

菅原副局長
ゲルマニウム何とかというあれは、やっぱり盛岡でないとできないですね。

吉塚公太郎
なので、そういうちゃんと細かく調べられるように、やっぱり消費者がそっちを望んでいるので、細かく調べられるように地域に、近くに、宮古でもいいですけれども、近くにそういうちゃんとした機械を設置していただけたらなと思います。

菅原副局長
機械が1台しか盛岡にないとすればかなりの金額の設備だと思いますので、その辺はちょっと私のほうでもどのような対応の仕方ができるのかどうかというあたりはちょっと探って調べてみたいと思います。ありがとうございました。
では、今までさまざまな御意見いただきました。泡渕さんを中心に情報伝達というか、そういうものの大切さという話もありましたし、小野寺さんからは三鉄全線開通に向けて、またそういったことを活用して観光とか、そういうものがもっと便利になればという話はありました。あと竹下さんのほうからは、意外とこの地域で気づいていないいろんな福祉のニーズがあるのではないかなと、そういうところに取り組んでいかれたいという話がございました。あと畠山さんのほうからは、いずれ御自分でいろいろ迷っていらっしゃる面もあるようですけれども、これからつくっていく町は明るい地域にしたいなというお話がございました。それから、吉塚さんのほうからはいろいろ今まで国等が中心になって復興道路等を取り組んでおりますが、そういったことについてのお金の使い道の問題あるいは放射線対策に対する体制の問題、そういったところでの問題提起があったかなと思いました。ありがとうございました。

知事所感

菅原副局長
それでは、ここで知事のほうから最後のまとめといいますか、所感をお願いしたいと思います。

達増知事
いろいろ具体的な提案もいただきましたし、また具体的な質問もいただきましたので、それぞれ答えられるところは県のほうからも回答し、またいつでも何でも県のほうでも聞いていただければと思いますし、村がどうのというのは私から言う話ではありませんが、私としては県のほうでもちゃんと答えていきますから、何かあればいつでも言っていただければと思います。
改めて復興の中で、安全の確保というのをよりきちんとしていかなければならないということ、また福祉の充実ですね、これもやっぱり復興の中できちっとやっていかなければならないと思います。そして、新しいまちづくりの中で商店をどこにつくるのかといった、そういう生活の場の確保と町のにぎわいですね、そういう商売の部分ときちっと両方セットで復興させていかなければならないということを改めて確認できたかと思います。
それから、やはり田野畑でおりる人がたくさんいるので、何か働きかけて、より田野畑で何かいろんなことをやってもらい、どんどん来てもらえるようにというのは、ここは本当に県のほうでもいろいろ工夫して、そういう地域の、もともと沿岸振興ということで大震災前からいろいろ取り組んでいたのですけれども、それと同じ方向で、復興というのはある意味沿岸振興の「興」の字をよみがえらせるのが復興ですから、ちゃんと振興していく、地域振興の流れをよみがえらせていくというのが復興だと思うので、そこはしっかりやっていきたいと思います。
あとは放射能問題は大事なので、まずは安全の確保ということで、安全に直接かかわるようなところの測定をきちっとやっていくところから始まって、あとは国の基準で農林水産物について、まず定期的にエリアの中で選んで測定して、政府であれば大丈夫というルールの中で、まずそれをきちんと確認できるようなところの測定をきちんとやるというのがその次に来て、できれば消費者のニーズにこたえられるような測定もやるという、まずそういう順番の中でできるだけ体制を充実させていければというふうに思っています。そんな感じでしょうか。

菅原副局長
皆さんのほうからいろいろ今日は御意見いただきましたが、これだけはぜひということがございますでしょうか。よろしいですか。

泡渕正
すみません、10秒間。

菅原副局長
はい。

泡渕正
こうやって知事さんが目の前にいて、こうやって話していただけるとすごく自分たちも、あしたにかけている強い自分たちをつくるにすごく勇気がわいてきたというような感じがしました。それで、忙しいでしょうけれども、またいつかの機会にぜひここで見せていただければ自分たちも頑張りがいがありますので、ひとつよろしくお願いしたいと思います。

竹下敦子
同感です。

達増知事
沿岸いろんなところでこういうことをやっていこうと思っていますし、またこのメンバーもまた全く同じメンバーで2回目というのはなかなかあれかもしれないのですけれども、今日で終わりではありませんので、また何かあればいつでも振興局あるいは私に直接でも構いませんので、どんどんいろいろ言ってきていただきたいと思います。

閉会

菅原副局長
それでは、皆様本日は貴重なお話をたくさんちょうだいいたしまして、まことにありがとうございました。
これをもちまして県政懇談会「がんばろう!岩手」意見交換会を終了させていただきます。どうもありがとうございました。

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