「がんばろう!岩手」意見交換会(平成26年9月19日 遠野地区)

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ページ番号1000864  更新日 平成31年2月20日

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 日時

平成26年9月19日(金曜)10時30分から11時45分

場所

遠野地区合同庁舎 1階 会議室A

出席者(敬称略)

  • 参加者(敬称略)
    山本 順一(遠野第3区自治会長)
    湯本 一士(遠野市社会福祉協議会 生活支援相談員)
    大平 トワ(希望の郷「絆」)
    田村 隆雅(NPO法人 遠野山・里・暮らしネットワーク コーディネーター)
    入倉 康彦(酪農家・産直上郷副組合長)
  • 県側
    達増知事、遠藤県南広域振興局長、東大野秘書広報室長

開会

東大野室長

 皆さん、おはようございます。ただいまから県政懇談会「がんばろう!岩手」意見交換会を開催させていただきます。
 本日はお忙しい中、ご出席いただき大変ありがとうございます。
 私、今日の司会進行役を務めます県の秘書広報室の東大野と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

知事あいさつ

写真:懇談会の様子1


東大野室長

 それでは、開会に当たりまして、知事からご挨拶申し上げます。

達増知事

 皆さん、おはようございます。この県政懇談会「がんばろう!岩手」意見交換会といいますのは、東日本大震災が発生しまして、その後、復興の最前線、復興の各地域あるいはさまざまな分野でその最前線で活動されている皆さんの話を知事が直接聞くことで県の復興施策をよりよいものにしていこうという趣旨でやっているものであります。
 この遠野市は、後方支援基地ということで全国にも大変定評ある地域でありますけれども、沿岸で被害を受けた皆さんの仮設住宅団地の拠点にもなり、またこの遠野にお住まいの方が沿岸の支援に入る、また遠野が全国からの支援の一つの拠点になる、そういったさまざまな形で復興にかかわっている中、そうしたところでご活躍の皆さんに今日はおいでいただきました。県議会からは工藤県議さんにおいでいただきまして、それから遠野市からも来ていただきどうもありがとうございます。
 それでは、よろしくお願いします。

東大野室長

 では、最初に私から本日の懇談会の進め方についてお話しいたします。
この後、私から出席いただいた方々のご所属とお名前を紹介させていただきます。その後、若干時間をとってご当地のお菓子を用意してございますので、それを食べていただいく時間をとりたいと思います。その後、皆様からそれぞれ自己紹介をいただいて、その自己紹介が終わった後、皆様からご意見、ご提言をいただき、知事とのやりとりをしていただきます。一通り皆様からのご意見、ご提言をいただいた後、フリーディスカッションみたいな形の時間もとりたいと考えてございますので、よろしくお願いいたします。
それでは、本日出席の皆様を私からご紹介申し上げます。
まず最初に、遠野第3区自治会長の山本順一様です。よろしくいたします。

山本順一

 山本です。よろしくお願いします。

東大野室長

 よろしくお願いします。
 次に、遠野市社会福祉協議会の生活支援相談員の湯本一士様です。

湯本一士

 湯本と申します。よろしくお願いいたします。

東大野室長

 次に、大槌から避難され、現在、遠野市にお住まいの大平トワ様です。

大平トワ

 どうぞよろしくお願いいたします。

東大野室長

 よろしくお願い申し上げます。
 次に、NPO法人遠野山・里・暮らしネットワークのコーディネーター、田村隆雅様です。

田村隆雅

 田村です。よろしくお願いいたします。

東大野室長

 最後になりましたが、酪農家・産直上郷の副組合長もなさっています入倉康彦様です。

入倉康彦

 入倉と申します。どうぞよろしくお願いします。

東大野室長

 県からは、ただいまご挨拶申し上げました達増知事、そして私の隣ですが、県南広域局長の遠藤、それから県議会議員の工藤勝子先生にご出席いただいてございます。それから、遠野市の経営企画部長様、それから総務部長様もご出席いただいております。皆様よろしくお願い申し上げます。
 それでは、皆様のお手元に飲み物とお菓子を用意してございますので、懇談の前にお召し上がりいただきたいと思います。局長のほうからお菓子のいわれはただいま説明申し上げます。

遠藤局長

 今日のお菓子は遠野市で、平成18年に設立されましたみちのくファームさんというところでつくったロールケーキでございます。これは、名前が遠野ロールという「遠野」の名前を冠したロールケーキでございます。これは、遠野で生産されたお米からつくっているというものでございまして、それもただのお米ではなくて発芽玄米「穂の華」というのがございまして、その玄米から少し発芽させた状態のものを使いまして、つくっているものでございます。遠野育ちのロールケーキということでございます。これは、召し上がっていただければわかる方にはわかると思いますけれども、非常にしっとりとして、もちもちとした食感だということです。普通の米粉とはまた違うような味がするということでございます。発芽玄米なので、香りやコクが非常にあるということでございます。ゆっくり味わっていただければと思います。

達増知事

 なるほど、普通のカステラと違いますね、これは。

山本順一

 私も遠野に住んでいて初めて食べました。

東大野室長

 県政懇談会のときには、地元のものを何か振興局で探して用意してもらっております。

遠藤局長

 うちの担当がいろいろ遠野産のものであれこれ探しながら、今回はこれを用意させていただきました。いろいろ遠野の名産ございますけれども。

達増知事

 米粉はどんどん発達しておいしくなっていますからね、いろいろ麺類になったりとかしているし。こういうケーキに使われるのもおいしいですね。

遠藤局長

 甘いです。

大平トワ

 おいしいです。

東大野室長

 そのまま発言なさっていない方はお召し上がりください。

懇談

写真:懇談会の様子2


東大野室長

 では、懇談に入らせていただきます。
 最初に、自己紹介を1分程度でお願いいたします。
 山本様から順にお願いいたします。

山本順一

 私は、仮設住宅希望の郷「絆」が建設されております遠野町第3区自治会長を務めさせていただいている山本順一といいます。よろしくお願いいたします。ちょうど今年は喜寿の年を迎えていますので、間もなく80に手をかけようとしている段階でございます。
 このたび県政懇談会のメンバーの一員として推挙され、知事さんと直接懇談できる機会をいただき、誠に光栄と存じます。反面、遠野市の日本のふるさと遠野祭りが行われる時期でもあり、特に私たち自治会の郷土芸能の穀町南部囃子の出演もあり、一時懇談会に出席したらいいかどうか悩みましたけれども、先に郷土芸能育成資金を活用させていただいて、穀町南部囃子の整備をした関係もありまして、参加をさせていただきました。ありがとうございます。
 私は、1998年3月まで国有林を管理している林野庁に42年間勤務させていただきましたが、退職間近に当たって、遠野市から人権擁護委員の要請があり、結果的に5期15年勤務させていただいて、去年の12月いっぱいで退任したところでございます。そういう経験が今回の被災者の支援に当たって、人間の心を中心とした支援ができたなというふうに思っているところでありますし、自治会長も今7期13年目に入っているところでございます。そういう状況の中で、被災者支援をしてきたわけですけれども、最初に話があったときにどういう支援行動をしていったらいいかということを行政担当者を含めて話し合いをして、地域の皆さんに理解をしてもらう、関心を持ってもらうという意味で居住地の愛称の募集をいたしました。結果的に57名の応募がありましたけれども、先ほど話したように希望の郷「絆」というような名称で名前をつけていただいて今日まで来ているところでございます。
 あと詳しいことについては、後ほどお話ししたいと思います。よろしくお願いいたします。

東大野室長

 どうもありがとうございます。
 では、湯本様お願いします。

湯本一士

 遠野市社会福祉協議会の生活支援相談員の湯本一士と申します。よろしくお願いいたします。本日は、オブザーバーとして出席しております谷地信弥生活支援相談員とともに参りました。
 希望の郷「絆」サポートセンターは、仮設住宅希望の郷「絆」に入居されている世帯、遠野市内に避難されている世帯への総合相談対応、地域交流等を行うための拠点施設であります。生活支援相談員は、遠野市内に避難されている世帯へ訪問による見守りや安否確認行動を行い、相談においては連絡調整の役割を担いつつ、遠野市を初め関係機関と連携し、日々支援活動を行っております。また、自治会や各種団体と共同し、避難者への地域コミュニティーと支え合い体制づくりを支援しております。
 私は、平成25年度から生活支援相談員として勤務しておりますが、出身は神奈川県の横浜市です。東日本大震災のボランティアで出身地である神奈川県からのボランティアバスを通じ、遠野市を拠点として活動いたしました。平成24年度から遠野市社会福祉協議会のボランティアコーディネーターとして神奈川県からの震災ボランティア活動を行う際の宿泊拠点神奈川東日本大震災ボランティアステーション遠野センターの管理運営と沿岸部へのコーディネート業務に努めておりました。ボランティア、ボランティアコーディネーター、生活支援相談員と支援の形は変わっておりますが、ボランティア活動をしていたときの何か私に役に立てることはないかという気持ちを持ち続けて活動いたしております。本日はよろしくお願いいたします。
 以上です。

東大野室長
 
 どうもありがとうございます。
 では、大平様お願いいたします。

大平トワ

 私は、大槌の桜木町というところに3月11日に避難を受けたときに、私の場合はちょうど町にいまして、選挙活動というものがありました、その当時は。そのときは町のところにいたのです。そして、私の場合は動物もいました。そのために揺れがすごくて、動物がいるということで、私はそのときに車で逃げようと思ったのですけれども、そのときに、名前を言うようで申しわけないですけれども、碇川さん、町長さんですね、「行っちゃだめだ」という声を言われたのです。だけれども、私は動物がいるものですから、その動物を助けなければいけないということで、急いで行きました。まず、間に合いました。そして、そのときにちょうど私は川のすぐ目の前がうちでしたので、そのときに土手のところから「波が来たぞ」という声とともに、私は隣にいたおばあちゃんが足を引きずりながら、その方に声かけて、そして「逃げよう、逃げよう」ということで、声かけて真っすぐに山のほうに連れて行って、それから私は車を置いていましたけれども、前の日まで私は牛乳配達の仕事をやっていました、退職後。そして、山に行ったのですけれども、後から聞いた話、もうそのときは水が私の後ろから追いかけるような感じで水が来たということを後から聞きました。私は動物と一緒に必死に奥へ、奥へと行きました。
 そして、避難所がわからなかったのです。そのときに、水が引いたかなと思って土手に戻ったら、そこに五、六人おりました、土手のところに。そのときに寒かったものですから、車のほうにまず油も少なかったのですけれども、年寄りの方が80、90近いおばあさんと、それから親子、やっぱり90になるおばあさんとあと息子さん、その方たちが戻ろうとしたのです、水のあるところに戻ろうとしたのです。それで、私は思わず怒鳴りつけたのですよ、「危ないからだめだ」ということで、「早く車に乗りなさい」ということで、それでちょうどたまたまそばにいた方が「大平さん、避難所は旧道にあるよ、旧道ですよ」ということで、私はその方を乗せて、そしてそのときにちょうど防犯コートを二、三枚私は乗せていましたから、そして牛乳配達していましたから、シートもちょうどありました。そのときに旧道に行きました。そのときは土でした、下が。そのときは、行ったときはもう500名、約600名。それでストーブももちろんありませんでしたから、そこで一晩こういう小さいおにぎりを2人で分けて、そういうふうな、そしてそれを私は4カ月そこで過ごしました。その中の1カ月は、動物はそこの室内に入れてはいけないというお医者様の声で、それで私は車の中に1カ月、寒い、それこそ3月末から4月ですか、一番寒い時期に車の中で1カ月動物と一緒に過ごしました。そのときの写真ですが、毎日新聞社の方が来まして、このように写真を載せてくださいました。

達増知事

 その白い犬ですね。

大平トワ

 はい、毎日新聞の方が来まして、それで4カ月過ごしたことで、足は大丈夫ですかということ。それからまず4カ月、そして遠野のほうにたまたまいましたから、その方に声かけられて、そして遠野のほうに来ました。そして、今山本区長さん、そしてサポートセンターの皆様にいろいろ本当にお世話になっております。今現在は、また後でお話はしますけれども、私はずっと踊りやっていましたけれども、津波あってから一切踊りもやらないと、踊りのものはなくしましたから。一切財産もありません、家もありません。ですけれども、私が踊りをやっていましたから、釜石の方に声かけられて、グループがいますからやろうと、それで去年の4月から施設、施設を回って山田、そして大槌、釜石、そして去年は遠野の福祉センターを借りて踊りを披露させていただいています。また、今月28日の日に社会福祉協議会で踊りを細川流として施設の方々を集めてご披露しようと思っております。
 以上です。

東大野室長

 ありがとうございました。
 では、次に田村様お願いいたします。

田村隆雅

 田村隆雅と申します。出身は東京都江戸川区です。2004年の3月に東洋大学の社会学部を卒業して、こちらのほうに移住をしてきました。
 もともとの経緯の話から、ちょっと組織の紹介をさせていただきたいと思うのですが、実は大学生時代に、遠野はグリーン・ツーリズムという都市農村交流で非常に先進的な土地で、日本で何カ所か、ちょうど私の先生が青木辰司先生という社会学部の先生でして、グリーン・ツーリズムの研究家でもありましたので、何カ所か連れて行っていただくときに遠野にも社会調査という形で計1カ月弱ぐらい学生時代に滞在したときにNPOが2003年の6月に設立していました。大学4年生のときの1年間、NPOの方と一緒に活動をさまざましていまして、特に集落に入って一緒にお祭りを盛り上げるようなグリーン・ツーリズムの参加者として最初は携わっていました。ちょうど2年目になるときにスタッフを募集しているという話をいただいて、大学卒業後、こちらに職業を決まりながら移住をして、最初は2年ほどで帰るような気軽な気持ちで来ました。まさか11年こっちにいるなんて両親は思っていないというふうなところでもあったのですが、今は結婚して子供も産まれました。移住者の子供が産まれると遠野の戸籍になるので、子供は遠野人かなというふうには思っているのですが、そういった経緯もありまして、外の人間として地域を楽しんだり、活性化するお手伝いができればいいということをずっと慎重に思いながら活動してきました。
 うちのNPOはそういったグリーン・ツーリズムのコーディネートであったり、地域資源を生かした企業の支援であるとか、いろいろやってはおるのですが、その辺は少し後でまたお話しします。そういう中で2011年の3月、震災が起こったときにうちの組織の目的とは別に物資の支援を民間としてやることになりました。その関係から、現地の方が4名ほど、高田が2名、大槌の方が2名物資の配達をしていただく方として雇用したところから震災の支援が僕たちとして、民間でできる後方支援がはじまりました。NPOが11年間積んできた交流を通した地域づくりということを一つのテーマにして復興支援の後方のサポートを今させてもらっています。遠野のスタッフが10名ほど、現地のスタッフが3名ほどで3年間、いろんなステージであるとか、ニーズによって今も活動している組織のスタッフでございます。   
 今日はよろしくお願いいたします。

東大野室長

 どうもありがとうございます。
 では、入倉様お願いします。

入倉康彦

 入倉康彦と申します。私は、出身は山口県の宇部市というところです。平成13年に縁がありまして、遠野市に、平成13年8月に酪農をスタートいたしまして、それまではまず最初に東京でリクルートという会社に就職いたしまして、3年ほど働いてから関連会社に安比高原というところがございまして、そちらで酪農の勉強をいたしまして、平成13年に開業して、酪農の牧場を開業いたしました。
 当時は100軒ほど酪農家があったのですが、今はもう30軒そこそこ、3分の1ぐらいまで減少いたしまして、どんどん、どんどん生産基盤は低下の一方です。やはりどうしても生産が農協さんの一元出荷だけだとどうしても経営が厳しいということで、当時から加工に興味がありまして、何とかアイスクリームとか、そういったものに加工して、要は付加価値の高いものを何とか開発できないかということで取り組んでいましたが、平成24年の4月におかげさまで産直上郷を整備していただきまして、こちらのほうで今は産直の副組合長もやっておりますけれども、主に牛乳を加工いたしまして、アイスクリームを販売しています。
 震災当時は、まだ新しい産直はできていなかったのですが、古い産直で事務をしておりましたところ、大きな揺れが来まして、道路も地割れもすごかったのですけれども、牛舎が心配になりまして、牛舎に行ったところ、牛は全然平気の平左で何ともなかったのですけれども、牛乳が出荷できなくなりまして、停電もしましたし、出荷が10日以上できなくて、初日から4日間は35頭ぐらい手搾りで1日8時間ぐらいかけて搾っていたのですけれども、その牛乳も全部10日以上捨てまして、どうしてももったいないということで、ちょっとヨーグルトに加工しまして、産直のほうに持っていって、結構沿岸の方もいらっしゃっていたものですから、そこでヨーグルトをお分けしたりしておりました。今は新しい産直でうちの産直は6割から7割が沿岸のお客様なのです。そういった沿岸のお客様が遠野に、内陸に行く途中に必ず寄っていただいて、お買い物を楽しんでいただけるような、そういったちょっとした楽しみをこれからもどんどん提供していければいいかなと思っております。きょうはよろしくお願いいたします。

東大野室長

 どうもありがとうございます。
 自己紹介をしていただきましたので、いよいよ意見、提言をしていただく……

達増知事

 一言。

東大野室長

 はい。

達増知事

 皆さんそれぞれ活躍されたり、またいろいろ大変な体験を乗り越えられたりされているなと改めて今伺って思ったのですけれども、東日本大震災前にやっていたことというのが震災後の活動の大きな基盤になっているなということも改めて感じたところでありまして、これは各地でいろんな方に会うし、また復興ということでいろんな皆さんと一緒に仕事をするのですけれども、東日本大震災を契機に大きく変わって、それまでやったことがないようなことをやったり、できなかったことができるようになったりと大きく成長されている皆さんが大勢いて、そういう皆さんの力で今岩手の復興が進んでいるなと思うのですが、ただ変わるというのは、全然違う人になるというわけではなく、震災前から持っていた種のようなものが大きく成長し、花開くというところがあって、震災前のそういう学びや、経験や、仕事というものがあってこその震災後の活躍だなというふうに思っていまして、今日はおいでいただいた皆さんもそうなのだなと思ったところです。

東大野室長

 では、これから意見あるいはご提言をいただきますけれども、お一人3分程度で復興とか、復興支援の取り組みで取り組んでいること、あるいはその中で困っていることとか、あと将来的にこんなふうに持っていきたいとか、そういったお話をいただきたいと思います。先ほどの順番で回りますけれども、お二人ずつで区切って、知事からコメントをさせていただくというような、そんな形で進めていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 お話の中で、県の取り組みがどうなのだとか、そういったご質問については、具体的なことは私とか、局長がお答えすることもありますので、あらかじめご了承ください。
 それでは山本様、それから湯本様、順番にお願いいたします。

山本順一

 先ほどお話ししたとおり、被災者を受け入れるという段階で、結局沿岸生活から内陸生活になるわけで、特に遠野市は県内でも1、2位を争う寒さのまちですので、そこら辺を心配しながら受け入れしたわけでございますけれども、最初はどこから来た人なのか名前もわからないし、そういう状況で、結局同じところから来た人だけの会話だけであって、その他の人たちの会話というのは案外少なかったように記憶しております。それを解消するためにどうしたらいいかということで、仮設住宅を2つに区分して、うちでは従来は25班までありましたけれども、26班、27班と2つの班をまず設けて、それに班長さん2人と、それから部長さんを設けて、そうすると部屋の番号と、それから名前が表せるので、そういう形で進めた結果、やはりお互いに名前がわかってくるし、会話がだんだんに広がっていくということを実感いたしました。最初の班長さんは今日来ている大平さんになっていただきましたし、そういう形の中で進めました。
 最初に取り組んだのは、やはりごみの問題、遠野市で分別をやっていますので、2カ所大きな収納庫をつくっていただいて、小屋も何も物置もないわけですから、その中にただ入れてもらうように、例えばプラにしても入れるような形で対応してもらっていることが一つありましたし、やはりその中で一番話が出たのは小さい小屋、物置でもいいからつくっていただきたいなという要望があって、市のほうでも直ちにそういうものに対する対応をしていただいて、何とか。でないと玄関に物がいっぱいにだんだんたまってくるので、足の踏み場もなくなるような状況でしたので、そういうことで解消していただきました。
 あとは、私たちが心配したのは被災してきて、仮設住宅の中にばかりおるような状態ではだめだということで、従来から行政区で行われているいろいろな行事に積極的に呼びかけをして、仮設の部屋から出るような形で行事に参加をしてもらうということに特に力を入れて行事には呼びかけをしてまいりました。たまたま8月の旧盆に私たちの行政区で、まつ火焚きというご先祖様を盆にお迎えして家族と楽しむということで続けている行事がありますけれども、それを仮設住宅のところに2基設けて、皆さんに集まってもらって、いろいろ震災で亡くなられた方、あるいはご先祖の皆さんの供養をしながら会話をしたというような状況もありました。そして、そういう中で、12月のクリスマスが近づいてきた段階で、自分たちでクリスマスをやりたいというふうな話がありまして、やっぱりそこまで心が開いてきたのかなというようなことも感じながら、クリスマスを成功させるために自治会あるいは地元の婦人会の皆さんに協力してもらって盛大にクリスマスパーティーやることができました。
 あとはたまたま私も先ほど話したように人権擁護委員をやっていましたので、最初は全国の人権擁護委員の方たちからの支援金をいただいた中で、最初にやったのが「観葉植物を育ててみませんか」という形で仮設住宅の中にあるサポートセンターに集まっていただいて、被災してこっちに来てから土とあまりなじまないので、そういう土となじむような形のことを考えながらやってみましたし、さらに次にやった行事というのは遠野に避難した方と花巻市に避難した方の交流をということで、「交流と温泉の会」ということで花巻温泉の紅葉館でやってきました。そして、さらに次の行事として、遠野で予算化しております「みんなで築くふるさと遠野推進事業」という支援事業を活用させていただきまして、花巻温泉のときに話が出た沿岸地区と遠野と花巻に避難している方々で幅広く交流をやりたいというご意見がありましたので、推進事業の予算を市のほうにお願いしたら快く引き受けていただき、ちょうど紅葉の時期でもありましたし、紅葉の有名な遠野の重湍渓あるいは馬の里の馬との触れ合い、水光園で交流会をやるという形で4地区が合同で交流会ができました。金での支援はできないけれども、心のケア、これを私は人権擁護委員として心を育ててもらった、「相手の気持ちを考え」、そして「相手を思う心」、そういうものがそういう面で出た、活動でやってこれたかなというように考えているところでございます。
 あとはまた。

東大野室長

 ありがとうございました。では、湯本さんお願いします。

湯本一士

 東日本大震災により被災元県から遠野市に避難し、仮設住宅及びみなし仮設住宅に住まわれている方々が現在自己決定をせざるを得なくなってきていることが、これからの住居の問題であります。仮設住宅にはいつまで住むことができるのかですとか、仮設住宅がなくなった後、どうすればいいのか、ひとり暮らしの高齢者なので、資金不足で新築を建てることは難しいけれども、できれば今の仲間と一緒に遠野に住みたいといった声を耳にします。
 遠野市の防災危機管理課による住宅再建等に関する意向調査においても、沿岸部の災害公営住宅ができ上がるまでは今住んでいるところに住みたいですとか、ずっと遠野に住みたいという要望が調査結果にありました。遠野市の市営住宅へ転居を希望している世帯もありますが、高倍率のため、抽選漏れとなった世帯もあります。これからの住まいについて先の見通しが立たないといった世帯は、将来の不安を抱え、不安が深刻化、複雑化している状況であります。
 私個人の意見ですけれども、例えば市営住宅のような形として住まいの設置ですとか、入居期限後のフォローがあればいいなと思っております。入居期限終了後について、住まいに関するハードな部分もそうですけれども、心のケアなどソフトな部分に関しても定期的な訪問や見守りといった支援が必要だと思われます。また、アウトリーチの必要性も感じております。仮設住宅から遠野市内に新築や中古住宅の購入で転居された世帯に対しても、転居した地域で孤立しないように、今まででき上がっていたつながりがなくならないようにと、自立して支援終了とはせずに、継続した訪問活動を行っております。
 震災から3年半が経過しまして、沿岸部から遠野市に、避難者ではなく一般世帯として転居される世帯もあり、その世帯の中にも震災による心のケアが必要な世帯や地域から孤立する恐れのある世帯などまだまだ支援が必要な世帯が存在し、今後も増加していくと思われます。生活支援相談員は孤独死防止や被災者に寄り添う訪問型の支援体制の構築が必要とされ、配置されております。今までは避難者という枠での生活支援でしたけれども、これからは枠を広げ、地域としての支援を自治会ですとか、関係機関と連携し行いながら、被災された方々が安心、安全に生活できるようこれからも人のつながり、地域のつながりを大切に、被災者の皆様の思いに寄り添いながら活動を続けてまいりたいと思います。
 以上です。

東大野室長

 知事お願いします。

達増知事

 仮設住宅団地のコミュニティーの維持でありますとか、その発展というのは大きな課題なのですけれども、遠野市の希望の郷「絆」においては、遠野第3区自治会の中の班としてきちっと位置づけていただいたおかげで、すぐ班長さんとか役も決まって、それでもう非常に高いレベルのそういうコミュニティー活動がすぐできるようになったということがとても大きかったと思います。さまざまなごみの分別も、そういう生活関係のことでありますとか、あとはいろんな行事ですね、仮設住宅の中、団地の中での行事もあれば遠出するような行事もあって大変すばらしかったと思います。
 そして、これからのことについて、どこに次は進むかとか、そういうことでいろいろ考えなければならない不安があるというのが今のフェーズだと思います。県の復興計画も最初の3年間は基盤復興期間で、今年、来年、再来年の3年間を本格復興期間と位置づけて、この3年間で災害公営住宅が大体できて、また高台移転とか、持ち家再建の造成が、土地の造成がこの3年間で大体進むという中で、いつ、どこに、どう住む、引っ越すというのがかなり具体化していく時期になっていますので、そういったところを県としてもきちっと情報の提供ですとか、あと災害公営住宅は県のほうの住宅もありますし、それぞれ関係の市町村と連携をしながら県でもしっかり対応していきたいと思います。
 また、大槌町から遠野市のほうに来られて住まわれているというふうに、今ふるさとが複数になっている、遠野市もだんだんふるさとになってきているところもあって、また沿岸、元いた場所もふるさとだという感じになってきていると思うのですけれども、これは広く見られることで、盛岡市にも大槌から来られた方がたくさんいて、そこは大槌町の側でもいろいろ情報提供するし、また内陸の市でも、遠野市は遠野市でまたさまざまケアをしてくださっているし、また県は県でそういう複数の市町村にまたがって生活されている被災者イコール復興者ですけれども、そういう皆さんへの情報提供もやるように努めていて、そこが大事なところだと思います。
 考え方のヒントとしては、医療、福祉の分野で地域包括ケアという考え方があって、それは特にお年寄りで、病気になれば病院とか、お医者さんにかかるのですが、病気までいかない、介護が必要な場合には介護施設ですし、介護までいかない場合には普通のお年寄りとしてのさまざまなケア、そういう1人のお年寄りの方のためにも病院、普通の開業医、そして介護等の福祉施設で、また自治体の福祉担当の保健師さんや福祉担当の職員、それから社会福祉協議会もそうですよね、そういういろんな組織や主体が、いろんな組織や専門家が1人の人に力を合わせてケアをするというのが地域包括ケアなのですけれども、被災者イコール復興者の皆さんに対してもやはりそういう形でケアなり、支援なり、あるいは情報提供というのが大勢の主体からなされていくということが基本だと思っていて、そこで県もしっかり役割を果たしていきたいと思っています。
 これは、人口減少問題というのが今年の春、夏、非常にクローズアップされてきて、ふるさとが消滅するのではないか、自治体消滅ということが危惧されているのですが、そういう人口減少を克服していくためにも住民一人一人をさまざまな組織や専門家が住民一人一人の悩みに応えて、そこで生活し、働いて、働ける人、働きたい人はちゃんと働いて稼いでいくことができるというふうに周りで囲んでいくような仕組みをつくっていくことが人口減少対策の基本にもなりますので、特に沿岸から遠野市に移られて、そして遠野市のほうに定住していきたいという皆さんへのケアの仕方というのは、そういう人口減少対策的な定住、交流政策とも一貫した取り組みになると思うのです。そういうことは東日本大震災関係以外で過疎に悩み、人口減少に悩む地域でもそういうやり方が非常に有効なので、県としてはまず今東日本大震災の復興という中で、それをうまくきちっとやって、県全体の人口減少対策にもそれを活用していこうというふうに考えているところです。

東大野室長

 では、また後で時間をとりたいと思いますので、続いて大平様と田村様。
 まず、大平様からお願いいたします。

大平トワ

 今、山本区長さん、それから湯本君からもちょうど私が思っていることをお話ししましたので、余り言うことはないのですけれども、確かに今の仮設ですね、前から比べると大分、心が皆さんやわらかくなってきたのです。ということは、最初のころはお互いにいろんなことがあったのです。それで、いかにどう、私もどちらかというと桜木町にいたときには踊りをお祭りとか、そういう行事のときに教えていたものですから、そういうわだかまりのないように皆さんが輪になってやりましょうということでやってきたものですから。
 それとあと避難所にいたときもそこの桜木町の自治会の会長さんがおりました。そして、ちょうど桜木町の人たち、もちろん私もそうですけれども、お手伝いですか、ボランティアのような形でまとめて、争いがなく、物もとったのとらないのとかいろんなことがありました。でも、そのときも会長さんが何かやって、あれしましょうか、配りましょうか、並べてやりましょうかということで、そういうようなこともやってきました。そして、こちらのほうに来て、そして私はここにも載せていますけれども、遠野のほうの区長さんたちの協力でお正月になればみずきだんご、そしてそれから婦人部の会の方たちにいろんなお花の生け花とか、そういうようなこと、いろんな行事を入れてきました。そのおかげで、心がちょうど集まり場が出てきましたので、それと同時に話し合いが、あの人がこうだ、ああだということがなくなって、じゃ、やろうかという、そういうことで皆さんの顔が、笑顔が出てきたというのか、確かに亡くなられた方もいます。だけれども、前向きにやっていこうと、私も2年間は苦しみました。この際どうしたらいいかと苦しみました。だけれども、去年の4月に確かに踊りのほうから声かけられて、ではやるかということでやりましたけれども、また仮設のほうのサポートの方たち、そしてもちろん区長さん、いろんな方に協力していただいていろんな行事を入れてくれました。それの中に自分も入っていって、そしてまたそこのサポートセンターにいらっしゃる仮設の方たちも一緒にお手伝いして、そして和気あいあいにいいな、これはいいなというふうな気持ちになりまして、これだったら遠野にいてもいいと。
 確かに寒いです。沿岸から来たらもう寒い、沿岸のほうは雪が降ってもすぐ解けますけれども、解けないうちに積もるものですから、もううちから出られない、それこそ出るのも大変、滑って転んだらどうしようかというふうに悩みました。だけれども、そういったたまり場というのをサポートセンター、自治会の方たちにいろんな行事、一応写真に載せてありますけれども、3月11日の日のそういったもので、御供養とか、ろうそくをつくったり、いろんなことをさせていただきました。そのたびに心が皆さん和やかになってきて、そして人のことは言わないことにしようね、誰でも欠点があるからね、みんな笑顔、これからは笑顔でいこうねということで、今はすごく皆さんが笑顔になってお茶飲み、ピヨピヨ体操だっけ。

湯本一士

 ケロケロ体操ですね。

大平トワ

 ケロケロ体操をやって、そしてそこで終わった後、お茶を飲んでいろんな会話をしたりして、そして習字の先生も来てくださいます。そして、ちぎり絵、つるし雛、そういうものをただ私たちはやっぱりただで教わるわけにはいかない、幾らかでもいいからお金を取って教えてくださいということで、まず500円でもいいからということで布代くらい、そしてあとガソリン代というような感じで、気持ちですね、それも大きくは出せないから、私も年金者なものですから。それで分け合い、そして仮設ばかりではなくてほかのほうにも避難していらっしゃる方がいるので、その方たちもちゃんとサポートセンターの方々が送り迎えしてくれます。そして来て、そして和気あいあいにお話ししたり、笑ったり何だりして、そうやって過ごさせていただいています。本当にそれこそ区長さんにも本当にご苦労ですけれども、これからもまたよろしくお願いしたいと思っておりますし、サポートセンターの谷地さん、そして湯本君だの、あとほかの方たちにも本当にお礼を私から代表としてさせていただきたいと思います。本当にありがとうございました。

東大野室長

 ありがとうございました。
 田村様お願いします。

田村隆雅

 特に僕たちは陸前高田と大槌を中心に活動していて、今の活動につながっていることは一体何で震災から3年、4年、5年、少し長く今後も続けていこうというふうに考えたというところから少しお話しさせていただきたいのですが、山・里・暮らしネットが当初できたときは夢を持った大人たちの語り場が最初だったのです。この地域の人口の減少であったり、若者の流出であったり、いろんな産業の低迷が少しずつ見え隠れしてきた中で、では個人としてできることは何かなということが農業者であったり、行政の方であったり、あとは県外から移住されてきた方が話し合う中で、では一つの法人格を持って遠野を小さいけれども、盛り上げていこうと、その中で交流とか、グリーンツーリズムをして、少しずつ自立しながら、生きがいづくりみたいなことをやっていこうということがNPOの今でも軸になっています。一緒に働く協働であるとか、自立をどう支援していくとか。
 私はコーディネーターという肩書きなのですが、この言葉は私はすごく好きでして、人と人とか、地域と地域、物事と物事、いろんなものをつなげる黒子というか、そういうところでやっているところです。遠野の交流のコーディネートしている団体です。物資の支援をする中で、高田から2名、大槌から2名、今でもう3年、4年目になりますか、現地のスタッフの方を雇用して活動してもらっていますが、高田の方は1人は運送会社、元々、運送業をやっていた方、つまり土地にすごく詳しい方でした。もう一人が広田町に住んでいる女性です、今でも高田に住んでおりますが、そういう方が地域を知っていますので、まず物資の支援が少ししやすかったというのが長く続いた一つの要因かなと思っています。1年、2年経つか経たないぐらいのときに、もちろん物資の支援が少しずつ終わってくる中で、僕らの後方支援も、遠野にもちろん事務所がある組織ですので、少し終わりを考えてもいいのかなというふうなことも出てきたのですが、現場のスタッフ、あとはかかわっている方々からコミュニティーをどんどんつくっていく必要が今後出てくるだろうと、そういう課題、問題意識が出てきました。
 その中で、ほっとひといき事業ということと、手仕事づくりのEAST LOOP(イーストループ)という、恥ずかしいのですけれども、ここにつけているハートのブローチなのですが、この方がプロの方がボランティアでデザインをしていただいて、岩手とか宮城の120人ぐらいの方が最初つくり手さんで、復興グッズとして販売をしました。本体価格の半分が生産者グループに行くということで、もう3年以上経っていますが、累積で7,000万円弱ぐらいのものをつくるようになりまして、少しいろんな意味で復興グッズが減っている中で、今、ビジネス化をしようと、つまり女性のビジネス化をニットの製作者の方を中心にやっていこうという、プロジェクトとしてやっていまして、少し新しい公共という事業を何年か前に使わせていただいたこともありますし、今、復興庁の新しい東北という事業を使って、これのビジネス化を取り組んでいくという流れにもなっています。
 これは大きな話でもあるのですが、つくり手さんの笑顔とか、つくっている方々の会話とか、コミュニティーをつくりながら、どう自分がそこで働きながら生きていくかという、そういうことをメッセージとして込めまして、うちの担当の女性スタッフが日々現地と連絡をとりながら、僕ら大きな中間の支援というか、販売元というか、そういうことを今やっております。
 このEAST LOOP(イーストループ)でいいますと販路を今後も開拓していかなければいけませんし、特に沿岸の個人の起業者さんの話も聞きますと、継続的にどうやって自分のビジネスを継続させていくのかという問題に対していろんな民間であるとか、行政の方とか、それぞれにいろいろ相談をしてやっていこうということもあります。情報がなかなか来ないということも一方で聞きますので、僕らNPOとしてはこういう頑張っている方々を民間で支える仕組み、企業者の支援策などをこれからもつくっていき、まずEAST LOOP(イーストループ)の少しビジネス化を推進していこうというふうに考えています。
 もう一つがほっとひといき事業ということをやっています。山本さんとか湯本さんが言われているように仮設でのコミュニティーづくりを目指す活動なのですが、当初はおふろに入れず魚が食べられないと沿岸の被災者の方、特に避難所の方々から意見を聞いたときに遠野のおふろを使っていただいて、そこで昼食に魚料理を出そうという発想で、バスで遠野までお昼御飯前後に連れてきて、また帰ってもらう。23年度は500人、24年度から年間1,000人ぐらいの利用があるのですが、年々ニーズも変化してきまして、今は集会所がない自治会さんとか、なかなか集まる機会のない自治会さんの交流の場になっています。お昼前後は、たかむろ水光園というところを使って20人ぐらいが仮設からやってきておふろに入って、少し心身リフレッシュしていただいて、昼食を食べながら交流を図るという企画をやっているのですけれども、最初は皆さん緊張されていたのですが、今はカラオケとか、高田音頭を踊ったりとか、あとカラオケの電池がなくなるくらい熱唱する方もいて、そういうリフレッシュをしながら、要はこれはコミュニティーをどうつくるかというのが遠野の後方支援だと考えていますので、いろんな支援もいただきながら続けています。
 その中で、私はすごく特徴的だなと思ったのが、感想でもらったのですけれども、高田のある仮設に住んでいる方なのですが、ひとり暮らしでなかなか話す機会がない方がとても多いし、隣近所をノックしてお茶を飲みに行くということもなかなか日々できない中で、月1回ほど来てもらっている仮設さんもあります。そういう方はこうやって自治会長さんに声をかけてもらう。コミュニティーづくりもそうですし、遠野に来てリフレッシュして、楽しい場にいれて、久しぶりに3分話ができたという、その3分というアンケートが持つ意味が何なのかなというのは非常に考えたのですが、少しコミュニティーづくりのためのほっとひといき事業、日帰り入浴支援というか、コミュニティーづくりを今後も続けていきたいです。なかなか高田とか大槌でも告知が広がっていかないものでして、今後ともこういうことをやっているということを少し告知できるような、方法をいろんな方に相談して、できないかなというところがひとつ今後の課題となっています。
 済みません、長く話してしまったのですが、以上そんなところです。

達増知事

 やっぱり雪は大変でしたか、初めて住んでみて。

大平トワ

 ええ、やはり来る方は大槌ばかりではないですから、高田のほう、気仙沼からも、釜石からも来た方たちですから、やはり人間関係ですか。動物を飼っている方が二、三人いまして、犬が嫌いだ、動物が嫌いだという方も中にはありましたから、かなり結構悩んだ方もいました。もちろん私の場合は、座敷犬ですけれども、私の場合も果たして受けてくれるかどうか悩みました。ところが、遠野のほうのここのところの合同庁舎のところに来まして、こういうわけでと言ったらば、いいですよと。それで、端のほうがいいよと端っこのほうでお願いして、そして今現在一緒におります。もちろん命は犬に助けてもらったという感じです。もしあれが犬のことを考えないでその場に町にいましたら、私も一緒に恐らく流されていたなと思いました。ですから、今は犬と。

達増知事

 そういうコミュニティー単位で端のほうに住んでもらうという調整ができるとペット好きの方とペット苦手な方と両方住むことができていいですね。

大平トワ

 はい。だから、やはりもとのところに、気仙沼の仮設に帰られた方もいますし、だけれどもまずそういうところはね。
 ただ、今ちょっと問題なのは、耳にしますけれども、プライバシー、要は建物なのです。私の場合は社宅みたいにしてなっているもので、背中合わせになっていますから、そんなにプライバシーというものは感じないのですけれども、向かい合わせになっている方がいるのです。そこ建物がそうなのです。やはりその中でいろいろと問題があるみたいなのです。だけれども、けんかするわけにもいかないし、隣同士だから。やっぱり向かい合わせになりますと見えるのですよね。それが嫌だという方がいるのですけれども、やはりひとり暮らしだし、どこにも行くところがないからこうしているという感じです。だから、あのとき、建てるときは恐らくはこちらのほうもそういったコミュニケーションのために建てたのだろうと思いますけれども、やはり背中合わせというのがよかったのではないかなというふうには思いましたけれども。今そうして、遠野の建物はすごくすばらしいと褒めていただいています。沿岸から来る方たちに「なに大平さん、いいところに住んで」なんて、こう言われますけれども。

達増知事

 視察も結構ありますしね。

大平トワ

 はい、そうです。遠野の建物は木で、すごくすばらしい、いいところですねというふうに褒めていただいていますし、私も踊りのほうを去年の4月から復活して、何かしら私も人に喜んでもらえることをしたいということを思っていたものですから、そのときに、では踊りを何十年もやってきたのだから、着類は貸すから、先生のほうからやってみようということで、それではということで、民謡の方と私と声かけられて、そしてここの合同で山田から大船渡、そしてこっちの大槌、釜石と、そして遠野と、そうやって今は忙しい毎日で、それこそ毎日お稽古、お稽古で大変忙しい思いをさせていただいています。それで、どうせだったら釜石に来たらと言われたのです。だけれども、私は釜石の市役所には申しわけないのですけれども、お願いしに行ったのです、一時は。そうしたところが、やはり籍は大槌になっていますから、大槌のほうに行ってくださいと。空いていると言われたのですよ、建物が。だけれども、大槌のほうに行ってくださいと言われたのですけれども、もちろん私は建物もありません。だけれども、大槌にはちょっと……。それよりも遠野のほうが居心地がいいものですから、大槌でというわけにはいかないものですから、とりあえず、私はまず遠野を紅葉、車で近くなりましたから、紅葉を見ながら心を、今日はこうだ、ああだというふうな気持ちで通いますからということで、もう毎日通わせていただいております。

達増知事

 だんだん復興のフェーズという言葉を政府はよく使うのですけれども、復興直後の段階から2年目、3年目と進むに従って、そのとき、そのときの課題も変わってくるし、またいろいろやれることも変わってきて、さっき田村さんからいつまでやるのか問題みたいな話もありましたけれども、県の計画では復興計画は8年計画ですので、宮城県さんは10年計画にしていますが、やはり長丁場というところもありますので、末長くやっていただきたいなというふうに思います。
 岩手で8年計画にするときに、実は私は最初は6年計画でいこうと言ったのです。5年ではちょっと非現実的な感じだけれども、6年でと。ただ、沿岸の市町村長さんのほうから6年はちょっと短すぎる、もうちょいという声もあって8年にしたのですけれども、気持ちからすると最初の6年でまず大体のことは復興させようという勢いなわけなのですけれども、ただ神戸の阪神・淡路大震災からの復興を見ていても、いろいろ建物ができたり、引っ越しが済んだりしてもまだ新しいところでの生活の支援ですとか、あと新しくつくった商店街の経済活動がなかなか軌道に乗らないという問題もあって、やはり復興事業というのは後に続くものだなと思いますので、そういったところまで視野に入れてやってもらえるといいなと思います。
 あとは、さっきも言いましたけれども、人口減少対策、ふるさとを消滅させないという観点から今復興でやっているような新しい東北のモデル事業もそうだと思うのです。新しいモデル事業、新しい東北のモデル事業というのは、実は全国の人口減少に悩む地域でやるといいような事業がいっぱいあるので、岩手県は実は消滅可能性都市、消滅可能性自治体の割合は全国ワースト5位に入っている、かなり消滅、消滅と言われている県ではあるのですけれども、そういうのを克服していくためにも今やっているようなことというのがずっと大事だなと思っていますので、よろしくお願いします。

田村隆雅

 ちょっとだけ。僕らも現場に行って、今知事はフェーズとおっしゃいましたけれども、現場の方の声というのは僕ら一番大事にしているのですけれども、節目を少し見るというのは大事かなと思っていて、ほっとひといきで一つ区切りにしているのが仮設住宅がなくなるまで。今後、その後どうなっていくかというのは少し見据えて、また新しい形になっていくと思いますし、今僕たちが交流を通したまちづくりを一緒に高田とか、大槌とか、沿岸の方と一緒に交流を通した地域づくりのほうのお手伝いも少しずつふえてきたりしていますので、少しそういった意味では、私は非常にどう言ったらいいかなのですけれども、これを機会にしてどう地域づくりに少し結びつけていけるかということを遠野を中心にしてですね、もちろん。微力ながらお手伝いは継続的にさせていきたいなとは会長ともども思っていますので、よろしくお願いいたします。

東大野室長

 では、大分お待たせいたしました。入倉さんよろしくお願いいたします。

入倉康彦

 私も24年に産直をオープンいたしまして、対面販売でアイスクリーム、農産物を売っているのですけれども、当初は家が流されたとか、何人親戚の方が亡くなったという話がすごく多かったのですけれども、最近はちょっと落ちついて、大平さんがおっしゃったようにちょっと落ちついてきていまして、逆にお買い物を楽しんでいただくお客様が、沿岸のお客様が相当増えてきているという感じで、商売をやっていて、それは実感します。少しずつ回復してきて、まだ道半ばなのでしょうけれども、心の持ちようで少しずつ回復してきているのかなという感じはしています。
 逆に復興支援とはちょっと離れてしまうのですけれども、今、産直にかかわって、私も酪農をやっていますけれども、どうしても生産基盤が相当弱体化しているというのを感じていて、やっぱりやめる方が結構多いのです。特に酪農の場合は、牧草が今とれなくて、いただいているのですけれども、それがなくなったらやめようという方がすごく多くて、あと後継者もいないですし、非常に危機的だなと感じています。
 それで、今産直でやってみて思ったのは、それぞれの組合員さんが、最初は売り上げがそんなでもなかったのですが、自分で加工を、おもちとか、だんごとか、加工をすることによって、どんと売り上げが上がっているのです。利益率も当然上がる。所得が上がるということです。これを年配の方とかが実感していて、これは、要は所得が上がるということは元気になりますので、産直自体も元気になるのです。これは例えば農業だけ、生産だけに徹するのもいいのですが、逆にちょっと工夫して、加工して販売することによって一気に産直が元気になる、組合員さんが元気になる。そうすると、生産基盤も少し拡大する、これ作付けしようとか、これやってみようとか、チャレンジする方がすごく増えているのです。1カ所そういう産直が上郷の周りに何もないところなのですが、ぽつんとあるだけで1億売り上げがあるわけです。ということは、これを例えばその1億円というお金は地域からいただいているお金ですよね。仮に沿岸にも一つそういった元気のある産直が1つできれば、そこでまた所得も上がるし、地域が循環する。これを例えば農村部の場合は消滅するといった、そういったさっき知事さんおっしゃったように人口がどんどん減っていって、ふるさとが消滅するという話がありますけれども、例えばこういう自分でつくったものを自分で売るというところがあるだけでその周りはすごく活性化しますので、こういったものを例えば沿岸とか拠点にぽつぽつと配置して地域が元気になれば、全体でトータルで農村は元気になるのではないかなと考えています。
 ただ、その地域内で貨幣が循環するだけではなくて、例えば農産物を外に出そうかとか、関東でもいいのですが、海外でもいいですし、せっかくつくったものを海外の皆さんに食べていただこう、輸出していこうとか、そういう発想を持った人が出てくれば外からお金が入ってくるので、地域はもっと活性化するのではないかなと思いながら産直で対面販売しているのですけれども。
 3年やってみて、初年度は8,000万円ほどの売り上げがもう1億円を超えるような売り上げになって、それぞれの組合員さんも100万円以上売る方がどんふえてきているので、本当にやっぱりみんな笑顔になってくるわけです、にこにこする。そうすれば、お客さんもにこにこして元気のいい産直にはお客さんも寄ってもらえるのです。やってみて、本当にこれはすごい効果だなと思います。酪農だけでは可処分所得率が岩手県は5%ぐらいなのですが、それが販売することによって所得率がぐっと上がることも実感しました。

達増知事

 ドラマの「あまちゃん」でウニをとって、ウニとして売るだけではなくてウニ弁当に加工して、地域のお母さん方がウニは銭、銭と歌いながら楽しそうに加工して、稼いでいくという、あれは地域振興の王道ですよね、そうやって加工して、あとさらに販売まで。最初は駅にある喫茶リアスで売っているのですけれども、だんだん鉄道の中で「あまちゃん」の格好をして売るとか。これは三陸鉄道も実際にまねして「あまちゃん」の格好をして三鉄の中でウニ弁当を売ると。ウニ弁当というのは、実際にあるものをドラマ「あまちゃん」がまねしたのですけれども、それを鉄道の中で売るというのは実際にはやってなかったので、今度はそれを実際の三鉄がまねしてやっているという、ドラマと現実がまねし合いながら相乗効果で高めているのですけれども。
 あとは「あまちゃん」がヒントになるのは、そういうのをインターネットで外に発信し、それで日本中からファンが来るみたいな仕掛けですよね。そういうインターネットを使った工夫とか、何かそういう新しい要素を入れて外ともつながっていくという鉄道を使うのも外とつながるポイントなのですけれども、そういうあたりが「あまちゃん」を見ていると参考になるなと思っています。
 あと人口減少については、消滅、消滅というのは日本創生会議というところのレポートで言われているのですけれども、大ざっぱに言うとあのレポートの計算は2010年の国勢調査の数字がそのまま2020年、2040年とずっと続くという前提で計算されていて、岩手全体でいきますと四千数百人人口流出するというのが2020年、2040年までずっと続くという計算なのですが、実はおととし、去年と岩手の人口流出数は年間2,000人くらいにまで縮んでいますので、実はもう計算の前提が大きく崩れているというところがあります。人口流出の数というのは、経済情勢とか、あとはいろんな国の施策、地元の努力によって大きく変化し、1980年代には岩手からの人口流出は年間1万人近くあったのですが、1990年代には1,000人ぐらいしか流出しない時期が続き、1995年が329人で最少だったのです。1995年にはほとんど人口流出しなかったと言ってもよくて、そのころは岩手の景気がよくて、有効求人倍率が全国平均より高くて、実はそういう雇用の場があって、景気もいいと岩手から出て行かない、あるいは戻ってくる、新しい人が来るということが統計上、ちゃんと証明されています。2000年代に入って東京一極集中的な経済情勢の流れになり、岩手だけではなく日本全国の道府県から人口流出がどんどんふえていって、リーマンショック対策の緊急経済対策で2000年代半ばからちょっと地方経済が改善し、これも岩手含め、日本全国の道府県で人口流出が減るということがありまして、だから結構国の経済政策で人口流出は減らすことができますから、今そこを私は政府に対して強調して、全国知事会でもそういうのを発言して、人口流出をとめるには国の経済政策でやれるのだから、それと地方側のいろんな対策を組み合わせればかなり改善できるということを今訴えているところであります。
 地元側の努力として、産直を拠点にした地域資源を活用した6次産業化というのは、もう地域を守る基本だと思いますし、人口減少でも1つ大事なことは、西日本の方向、中国山地の山奥の村で人口が5,000人を切って、過疎が悪化してもうどうしようもないというようなところが追い詰められて物すごい手厚い定住支援、若い夫婦が引っ越してきたら何でもしますみたいにやって、それで人口流出が逆転し、むしろ人口流入のほうが多くなる。それは1けたぐらいの数人程度ではあるけれども、人口流入のほうが多くなるという村が西日本のほうに出てきていて、実は過疎がうんと進んで人口減少が悪化したところで思い切った手を打つと、かえってそこから逆転して人口流入がふえ始めるという例もありますので、だから人口減少が著しいから、イコール消滅というレッテルを張って、もうそこは見捨てるというのは絶対やってはだめだと思っているのです。むしろ、人口流出著しいところで逆転の可能性というのが出てくるので、そこのところも大切にしていきたいと思っています。

東大野室長

 ちょっと進行がまずくて予定時間が過ぎてしまっているのですけれども、もう一言おっしゃりたいという方がいらっしゃれば……。

山本順一

 仮設住宅に40世帯入っていたのですけれども、今は13世帯が出て、27世帯にまでなってきました。残っている人たちの気持ちとして、被災地の復興がおくれている中で、自分の居住地をどこにするかということが一番の悩みですし、それとあと仮設住宅の入居期限がどうなっていくのかということが一番の悩みのようでございます。さらに、望みとすれば国民年金生活者、特にひとり暮らし老人の人たちが13世帯今のところあるのですけれども、今から借金してうちを建てられないし、できれば福祉住宅という形で今の仮設住宅に防寒と防音をちょっと施してもらった程度でもいいので、できればそういう住宅をつくっていただいて、家賃5,000円ぐらいで入れる場所であれば何とか生活していけるのではないかというようなことで話がよく出ます。それとあとは働いている人たちの世帯については、できれば市営住宅に、被災者向けの市営住宅なり、そういうものをしていただければいいなという話がありましたので、私としても今後遠野市と何かの機会にいろいろ提言していきたいなというふうに思っているところでございます。

達増知事

 仮設住宅は、もともと建築基準法上、2年間という話だったのがもう1年オーケー、もう1年オーケーとどんどん延びていて、これは国の政府もそうですし、県も市町村もそうですが、まず追い出したりしないということです。必要なそういう仮設住宅などに住むことが必要な人に対しては必要なだけきちっと住む場所は提供するというのは原則で、あとはそれをどう法律とか、規則とかで形にするかでわかりにくくなっているのですけれども、困る、路頭に迷うようなことはしないというのは大原則と言っていいです。一部例外的というか、民間の方の土地でそこを別のことに使いたいので、移っていただけないかと移転を迫られるケース、幾つかの市町村でそういう移転をお願いするということはあるのですけれども、何かそういう特別な事情がない限りは住み続けられるというのが基本になっています。
 あとは仮設住宅を恒久住宅のような形で払い下げみたいにするということについては、今、県としては全国で初めて仮設住宅の改修計画を全体的に市町村の意見も聞いてまとめるというのを始めましたよね。あれで仮設住宅をそのまま恒久施設に使えるところというのについては、それはそれでチェックするみたいなことをやりましょう。言われていましたからね、優良な仮設住宅はそのまま恒久住宅にしていいのではないかという話があって、プレハブでとても恒久住宅にはできないというようなところもあるものですから、仮設全体を全て恒久住宅化できるという仕組みにはなっていないのですけれども、そういう恒久住宅ができるところについてはそこら辺をはっきりさせるということが今回の改修計画、チェックのところでやれるのであればやると、わかりやすくなっていいので、そうしましょう。
 住む場所をどこに住むかというのは悩ましいところではあるのですけれども、私が思うのにはどこに住むことになっても多分幸せはあるのだと思うのです。大槌に住むでも、釜石に住むでも、あるいは遠野に住むでも、それぞれに幸せになっていく道であって、であるがゆえに迷ってしまう、困ってしまうということで、正解が1つではないというのが大変なのですけれども、絶対正しい答えが1つあるわけではないということが大変なのですが、ただそれは幸せになる道はいろんな道があるということでもあるので、縁のある土地が増えるというのは基本的にいいことだと思うのです、ふるさとが増えるというようなことで。それは山口から来られた方や、横浜から来られた方、東京から来られた方もそうだと思うのですけれども、縁のある土地が増える、ふるさとが2つも3つも自分のふるさとになるというのは基本的にいいことだと思うので、それを生かした地域づくりを県のほうでも工夫していきましょう。

東大野室長

 まだお話し足りない部分はあろうかと思いますけれども、予定時間がきてしまいましたので、今日はさまざまご意見いただきまして、大変ありがとうございます。

閉会

東大野室長

 私たちもこれから政策をどうしていくという宿題がありますので、それに参考にさせていただきたいと思います。大変ありがとうございました。

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