希望王国岩手キャンパストーク(平成21年1月23日)

Xでポスト
フェイスブックでシェア
ラインでシェア

ページ番号1000961  更新日 平成31年2月20日

印刷大きな文字で印刷

訪問学校:県立産業技術短期大学校
開催場所:矢巾町

希望王国岩手キャンパストーク(訪問学校:県立産業技術短期大学校)

  • 実施日 平成21年1月23日(金曜日)
  • 場所 県立産業技術短期大学校

達増知事
皆さん、おはようございます。まず、「技術と私」というテーマで講演をします。大胆不敵なテーマなのですけれども、技術には昔から関心があって、今でも関心がありますし、またいろいろ仕事で技術にかかわってきたこともあるので、こういうテーマでお話をします。
私は知事になってから、知事の仕事をするときには必ず岩手県産のネクタイをするようにしていて、一日も欠かしたことがないのですけれども、今日はちょっと技術っぽいネクタイと思いまして、八幡平市松尾の地熱染という、地熱発電所があるのですけれども、地面から吹き出してくる蒸気を使って染め物をするということをやっている会社があって、そこがつくった地熱染のネクタイをしてきました。
また、ネームプレートは、真っ黒いネームプレートに金で岩手県知事、達増拓也と書いているのですけれども、これは浄法寺の漆を使ってつくったものです。岩手県は、全国都道府県の中で、最も漆の産出量の多い県であります。日本が産出する漆の60%くらいは岩手の漆であります。私のネームプレートはこの浄法寺塗バージョンのほかに秀衡塗バージョン、これは赤いもので、こっちは平泉のほうの秀衡塗、これは赤いベースに武田菱を金であしらったりとか、そういうのが特徴なのですけれども、それとかわりばんこでネームプレートをつけております。
さて、手元のレジュメに「1 小中学生、高校生の頃」ということから始まって、技術と私というのをいろいろ書いているのですけれども、まず物心ついたころ、幼稚園のころに学研の「科学と学習」というのがありました。これは今でもあるのかな、学研の「科学と学習」、どっちか購入していた人、だれかおりますか。「学習」を購読していた人……はい、はい。あと「科学」のほう……ああ、この辺にいますね。私も「科学」派のほうで、幼稚園から小学校にかけてずっと購読していました。すごい本格的な付録がついてくるのが魅力でありまして、朝顔の種とかで、鉢があって、植物を育てられるものとか、あと水鉄砲、空気鉄砲、プラスチックでできたすごいよく飛ぶ水鉄砲、空気鉄砲とか、いろんなそういう付録がついてくるのが楽しみでした。
それから、1970年、大阪万博、小学校に入る前の年ですね。幼稚園の年長組のときに大阪万博が開かれました。私は、大阪万博には行っていないのですけれども、クラスで、私は盛岡で生まれ育っているのですけれども、その盛岡から大阪まで家族で行って万博見てきたなんていう人たちが写真を撮ってきたものを教室に張って自慢したりとかしていて、行かない人でも大阪万博というのはすごいイベントとして印象に残っています。
小学館の学習雑誌もとっていて、紙の組み立て付録で大阪万博に建てられた「太陽の塔」とか、アメリカ館とかソ連館とか、そういうパビリオンの組み立て付録がついてきたりとかしていて、どういうパビリオンがあって、その中でどういう映画が上映されているのか、アメリカ館には月の石があるとか、そういう情報を盛岡に住んでいる子供たちもみんな共有して騒いでいた、そういう時代でありました。
その次、小学校卒業文集での将来の夢、科学者になって宇宙ロケットを乗り回したいと、そういうふうに書いていました。その次に「キャプテン・フューチャー」と書いているのですけれども、「キャプテン・フューチャー」って知っている人いますか。これは、私が中学校の2年生ぐらいのころにNHKのアニメでやっていたのですね。私はこれを大変気に入っていまして、この「キャプテン・フューチャー」というのは科学者なのですけれども、自分でロケットをつくって月面チコ・クレーターに基地をつくって、そこから何にでも変身できるアンドロイドの相棒と、それから怪力のロボットの相棒、あとは脳だけになったのだけれども、それが機械の中に入って、ふわふわ空中を移動できるサイモン教授という、そういう博士と一緒に宇宙船に乗って宇宙のあちこちを冒険して回って、悪者をやっつけたり、災害から人を助けるという、そういうのをテレビで放送していて、それが大変好きでした。
そういうジャンルをスペースオペラというのですけれども、宇宙活劇などと訳されていますが、その下にSFと書いていますね。そういうスペースオペラというのは、もともと戦前、第二次世界大戦の前ごろからアメリカではやり始めて、そして宇宙船に乗って月に行ったり、火星に行ったり、そして悪い宇宙人、悪い怪獣と戦ってやっつけるとか、火星のお姫様がピンチに陥っているのを助けるとか、そういうスペースオペラというのは戦前から戦後にかけてアメリカではやり、戦後日本にも来て、小説の形では1950年代、60年代、結構日本に広がります。子供向けに翻訳されたスペースオペラが結構学校の図書館にもあったりしまして、私はそういうのを熱心に好きで読んでおりました。
小学生時代は、まだ図書館の本でしかそういうスペースオペラ、SFは読めなかったのですけれども、私が中学校の2年生のときに最初の「スター・ウォーズ」が日本で公開されるのですね。31年前になります。去年が30周年だったのですけれども、「スター・ウォーズ」が日本でヒットして、それでそういう宇宙ものの映画とか、アニメとかが日本でもどんどんつくられるようになります。スペースオペラには、「スターウルフ」という作品とか、「レンズマン」という作品とか、そういう小説では古くからあった作品がドラマ化されたり映画化されたりしたのがこの時代でありました。
そのころの時代の雰囲気を思い出すと、高度成長時代ですよね。そして、科学技術の発達で、世の中どんどんよくなっていくだろう、そして世界も平和になるだろうという、そういう楽観的な科学技術ビジョンが一方にあったのですけれども、ただ同時にそういう科学技術の発達が環境破壊、当時は公害問題として社会問題化していたのですけれども、今は地球環境問題と、地球全体が危ないということが問題の中心になっていますが、当時は水俣病とか、四日市ぜんそくとか、あとは新潟県のほう、富山県のほうのイタイイタイ病とか、そういう公害、そしてそれが病気を発生させる、そういうことが盛んにテレビで取り上げられていて、もう一つ科学技術の負の面としては、アメリカが恐れたのは核開発競争にしのぎを削っていまして、核兵器の開発競争です。それで、私が中学生ぐらいのころというのは、本当にいつアメリカとソ連が核兵器の撃ち合いをして、世界全体が核戦争になって人類が滅びるかわからないという、そういう雰囲気もありました。科学技術のそういうプラスの面とマイナスの面がありまして、どっちもすごい極端な形で出ていた時代だったと思います。そういう中で、いろいろ子供にとっても科学技術というのは非常にインパクトを強く植えつけられていたなという感じはします。
さて、「2 大学生の頃」、村上陽一郎の科学史とあるのですけれども、私は東京大学の法学部に入りました。法律とか政治経済の勉強が中心になっていくのですけれども、それでも幾つかそういう専門以外の授業をとることもできて、その中で村上陽一郎という先生の科学史、科学の歴史ですね、この授業をとって、これが大変おもしろかったです。
高校生のころの話をちょっとすっ飛ばしていましたね。小学校、中学校と理系分野にすごい関心が高かったのですけれども、高校生になって、哲学とか、あとは政治経済、そういう文系的なほうに関心がどんどんシフトしていきまして、その結果大学はそういう法学部を選んで、法律とか政治とか経済とかを専門にするようになったのですけれども、それでも科学技術に関する関心はなくなったわけではないので、こういう科学史の授業をとったりとかしていたわけです。
大学も学年を進めるに従って、特に国際政治学に興味を持って、その関係の授業を多くとり、後に外務省に入ることになるのですけれども、この国際政治学というのの大事な分野として、科学技術というのがあるのです。
その次に薬師寺泰蔵「テクノヘゲモニー」と書いてあるのですけれども、薬師寺泰蔵という人は、国際関係論の専門家なのですけれども、科学技術が国際関係に及ぼす影響というのを専門に研究していて、政府の総理大臣直属の科学技術会議の委員にもなっている人であります。この人の「テクノヘゲモニー」という本が私が大学在学中に出たのですね。これは、当時「大国の興亡」という本もはやったりしていて、当時日本の経済力がどんどん高まって、日本の経済力がアメリカを追い越すのではないかというふうにこのころ言われていました。1980年代、日本がバブル経済に突入していくあたりです。あのころの日本の経済力の伸びというのは物すごくて、1人当たり国民所得はもうアメリカよりずっと高くて、主な先進国の中で一番高かったと言ってもいいです。ルクセンブルクとか、そういう国がたしかトップだったのですけれども、そういう国を除いた、サミットに出てくるような主要国の中では日本の1人当たり国民所得が一番高かった。
そして、経済力も物すごくあったのですけれども、それは日本の科学技術の力がすごいからだというふうに言われておりました。アメリカは、日本に追い越されないようにするにはアメリカの科学技術の力を高めていかなければならない、そういう議論が当時行われておりました。アメリカがどんどん衰えていくのではないかという不安感がアメリカの中にあって、それでアメリカを中心に、そのころの国際政治学では、大国が成長し、そして衰えていく、そこにいかなる法則性があるかという研究がはやっていまして、歴史をさかのぼるとコロンブスが新大陸を発見したり、マゼランが世界一周した大航海時代、1400年代ですね。15世紀、そしてその次の16世紀のあたり、15、16世紀の大航海時代。まず、当時世界最強の国は、スペインとかポルトガルだったわけです。そのスペイン、ポルトガルがやがてオランダ、イギリス、フランスに追い越されて、そしてそこにドイツが挑戦し、そして最後はアメリカ、ソ連が世界の2大国となっていく。
その世界の覇権国、ヘゲモニーというのは覇権という意味なのですけれども、そういう世界を牛耳る覇権国の移り変わりというのは、いろんな研究がなされたのですけれども、結局科学技術の力ですね。立派な帆船をつくって、そして火薬を武器にして世界のどこにでも行って、そこの原住民を制圧できる力というところから始まって、やがて帆船に大きい大砲を積んで、船と船との間の大砲の撃ち合いに勝てるようにする。そして、相手の大砲からこっちの船を守るために鉄張りの鉄の船をつくる。これが黒船で、幕末日本にやってきたのはそのころの科学技術ですね。幕末日本に黒船がやってきたことに刺激されて、科学技術を伸ばしていかないと、そういう帝国主義の時代に生き残っていけないということで、富国強兵とか殖産興業とかを明治の時代になってやっていくわけでありますけれども、そういう国際政治学に科学技術という要素は不可欠のものであったわけであります。
そして、さらに「3 外務省時代」ということで、外務省に入ると、地球上のすべての国について詳しくなり、また外交もすべての分野について詳しくなるというのは無理なので、その中で自分の得意分野というのを自分で身につけていかなければなりません。それで、私はアメリカに留学させてもらったので、国で言えばまずアメリカ、それから英語が話される東南アジア、シンガポールの大使館に2年間働いたりもしたのですけれども、そういう英語が話される地域で、特に太平洋を挟んでアメリカから東南アジアのあたりを国別では得意分野にし、そして分野別にも自分の得意分野を持たなければならないというときに、いろいろあるのです。国際法とか、貿易とか、ODAのような経済援助、それから文化交流、あと軍事関係、安全保障、そういういろいろある中で、私は科学技術を自分の得意分野にしようと思ったわけであります。
それで、ジョンズホプキンス大学というところに留学させてもらうのですけれども、ちなみにこのジョンズホプキンス大学というのは新渡戸稲造博士が留学していたところで、岩手、盛岡とも縁が深い大学であります。ジョンズホプキンス大学の国際関係論の大学院に留学したのですが、運よくちょうど私が留学している間に国際関係論の学部の中に科学技術と外交という講座を新しくつくろうということになり、私はその講座の設立を助けることになります。その講座の担当の先生は、ジョンズホプキンス大学の応用物理研究所というのがあって、その応用物理研究所の先生だったのが国際関係論の学部に派遣されて、科学技術と外交という講座を持つことになる。
その先生は、応用物理研究所で化学の専門家で、応用物理というくらいだから、ただ理論だけやっていたのではなくて、火を消す消火の専門家だったわけです。消火剤の専門家。この人は、湾岸戦争、今のイラク戦争の前に1990年から91年にかけて湾岸戦争という戦争があって、やっぱりイラクでアメリカ中心の多国籍軍が戦争をやっていたのですけれども、そのときイラクの油田が爆発して燃え上がって、どうやって消すかというのが問題になったのですよね。そのときにアメリカ政府に依頼されて、その消し方を伝授した。こういう薬を使い、またこういう方法で火を消していけばいいという、そういう消火の専門家の人だったのです。
ですから、外交とか国際政治とかについては素人なので、授業でどういうことを教えればいいかということがわからないから、ちょっと相談に乗ってくれと言われて、私と、私だけではなかったのですけれども、この科学技術と外交ということに興味がある学生が私を含めて二、三人くらいその先生を手伝って授業のカリキュラム、中身を決めて、それでこの科学技術と外交という講座を立ち上げました。私はジョンズホプキンス大学の定期刊行物、毎年1冊だったか2冊だったか定期的に出している論文集があるのですけれども、その論文集にこの薬師寺泰蔵さんの「テクノヘゲモニー」の書評を英語で書いて載せたりして貢献をしました。
次、アメリカと科学技術と書いているのですけれども、このジョンズホプキンス大学のメーンキャンパスはボルティモアというアメリカの沿岸のほうの港町にあるのですけれども、国際関係論の学部のビルはワシントンDCの中にありまして、私はワシントンDCに2年間住んで、そこの学校に通っていたわけです。きのう、おととい、オバマ大統領の就任演説とか就任のセレモニー、ワシントンDCを舞台にして行われて、行ったことある場所ばかりだったから、すごい懐かしかったのですけれども。そのワシントンDCには、博物館がたくさんあります。国立の博物館がたくさんあるのですけれども、そこを見るとアメリカ人がいかに科学技術ということを愛しているかがよくわかります。
歴史博物館、そこに書いていますけれども、ワシントンのちょうどホワイトハウスの裏のあたりで、オバマ大統領の就任演説を聞いている人たちが何十万人も並んでいた広場があります。あの広場に面して博物館がたくさん並んでいるのです。その中にアメリカ歴史博物館というのがあるのですが、アメリカ歴史博物館の展示の半分は技術関係です。これはフォードが大衆自動車を開発したとか、エジソンが電灯を発明したとか、そういうアメリカでいろんな発明、発見をした人たちや、その発明や発見されたものが文明をつくっていく、そういう技術関係の展示がアメリカ歴史博物館の半分を占めています。
アメリカの歴史の半分は技術の歴史と言ってもいい。若い国ですからね。アメリカという国ができたのは、独立宣言は1776年ですから、まだできてから二百何十年しかたっていません。日本で言うと、江戸時代の後半にできたばかりの国ですから、アメリカの歴史というと、そんなに長くない。しかも、近代になってからできた国なので、技術の要素が非常に多くを占めている。それで、博物館がいろいろある中で、一番人気の高いのが航空宇宙博物館ですね。NASAの宇宙開発の歴史、スペースシャトルの模型、そういうのが展示されているのがワシントンの航空宇宙博物館で、これは本当にアメリカ人が大好きで、人気が高くて、いつも混雑しています。
それから次、フォード博物館というのを書いてありますけれども、これはデトロイト郊外にあります。自動車産業の中心地デトロイト、フォードの本社もそこにあるのですね。フォード博物館というのは、郊外にあって、そこはフォードの自動車の歴史が展示されていて、おもしろかったのは、ヘンリー・フォードが大衆車を開発する上で最大の手柄というのは、流れ作業という工程を発明したことなのですね。それまで自動車工場というものは、1台1台自動車をつくっていたのです。自動車の各部品を何でも職人さんがつくって、物すごい時間がかかっていた。それを流れ作業にして、働く人がハンドルをはめるところはもうハンドルはめるだけの人がそれをやり続ける。そして、その後エンジンを入れる作業はエンジンを入れる人だけがやる。エンジンの組み立ては、また別のところで別な人がやる。そうやって手分けして、分業で、流れ作業で物を生産するということをヘンリー・フォードが発明したわけですけれども、フォード博物館はその分業、流れ作業というのを子供でも体験できるコーナーがあって、積み木で組み合わせて自動車をつくっていくのですけれども、そこでハンドルをつける役の子供はハンドルをつけることだけやって、その場に居合わせた10人ぐらいの子供がそれぞれ役割分担をして、みんな自分の作業をやって、流れ作業で1台の車、木の積み木の車ができ上がるというのをみんなが体験できるようになっています。
フォード博物館はそういう技術へのこだわり、そしてそういう技術が自分たちの国で生まれた、自国民がそういう技術を発明した、そういうことへの愛のようなものがあって、非常に深い、そういう博物館になっております。
それで、外務省に帰ってから、私は国連局科学課というところに配属になりました。これは希望して配属されたのですね。科学技術をやりたいということで、国連局科学課に配属されました。後に国連局科学課は外務省の組織改革があって、総合政策局国際科学協力室という名前に変わるのですけれども、何をやっているかというと、科学技術に関する国際協力のアレンジをするのですね。これは国連のようなところで、みんなですべての国が参加するような、最近で言うと地球環境モニタリングのような協力があります。
日本には、2国間の科学技術協力、国と国が1対1でやる科学技術協力というのもそれぞれありまして、日本とアメリカ、日本とロシア、日本とイギリス、日本とドイツ、最近は日本とEUというまとまりでやったりもしますけれども、私が担当していたのは日本とアメリカの2国間の科学技術協力であります。1年半に1回ずつ日米科学技術大臣会合というのをやるのです。それで、日本からは当時科学技術庁長官、今は科学技術庁は文部省と合わさって文部科学省になっているのですけれども、当時は科学技術庁という役所が独立していて、そこの長官が日本の代表で出て、アメリカのほうは科学技術担当大統領補佐官というのがトップで出てきて、日米の科学技術協力についていろいろ確認をしたり、新しいことを決めたりするそういう会議、これが私の仕事の中で一番大きい仕事でありました。
そのとき日本側は、科学技術庁だけが出るわけではありません。ほとんどすべての役所が参加をしました。といいますのは、例えば警察庁も科学技術開発をやっているのですね。何の科学技術開発かというと、ITを使った交通安全システムみたいなものを警察庁も研究開発しているわけです。それから、厚生省、今は労働省と一緒になって厚生労働省になっていますけれども、厚生省というのは医療、福祉を担当する役所ですけれども、この医療という分野はもう科学技術の粋ですから、最先端の科学技術を医療に生かす、そういう研究を厚生省もやっていますので、参加してきます。農林水産省も重要な参加者でありまして、それぞれ農業、林業、水産業の研究開発が行われています。
その中でも科学技術に関する日本代表として、3つの省庁がトップスリーだったのですけれども、まず1に科学技術庁、これはもう日本の科学技術を所管する役所です。そして、文部省、当時科学技術庁と文部省が分かれていたときに、実は日本の科学技術予算の半分くらいは文部省の予算なのですね。大学を初め研究機関をたくさん抱えて、そこで巨額の予算を使って研究開発をしている。文部省のほうが科学技術庁よりもそういう科学技術予算をうんとたくさん持ってやっていたわけであります。今は科学技術庁と文部省は一つになって統一的にやっているのですけれども、昔はライバルだったのですね。宇宙開発についても、科学技術庁の宇宙開発事業団と文部省所管の東大宇宙研究所だったかな、そういうところがどっちも宇宙開発をやるのですけれども、ライバル同士で、協力しないで、あっちがこれをやるのなら、こっちはこれみたいに争ったりもしていたのですけれども、それは効率が悪いということで、今は合体して日本で一つの宇宙開発組織があります。
3つ、トップスリーと言いました。もう一つの役所が当時の通産省、今は経済産業省と言いますけれども、産業技術を所管する役所です。産業技術という言葉がようやく出てきたのですけれども、日本にとっては産業技術というのは非常に大事ですし、またアメリカにとっても基礎研究、大学とか研究所でやる基礎研究についてはアメリカのほうが強いだろうという自信をアメリカは持っているのです。ただし、日本の企業が中心になってやっている産業技術の研究開発については日本のほうがうまくやっている、先を行っている、そういう問題意識をアメリカ側が持っていましたので、日本の通産省、今の経済産業省の参加というのが非常に重要だったわけです。研究開発機関や研究開発予算も結構持っていますし、それがトップスリーの役所です。そこに外務省が加わって、その4省庁が相談して、いろいろ日本の方針を決めるということをやっておりました。
この省庁間の対立とか争いというのが物すごくあって、日本の意見を一つに取りまとめるのにいつも苦労していました。科学技術庁や文部省は、どちらかというと研究開発をどんどんやりましょうみたいな感じですけれども、通産省のほうはやっぱり日本の技術を守らなければならない、盗まれないようにしなければならないみたいな問題意識がありますから、ちょっと慎重なわけですね。そういう中で日本として統一的な方針を決めて会議に臨むというのは、毎回毎回大変でありました。
さて、「4 衆議院議員時代」。平成8年、1996年に私は外務省をやめて衆議院議員選挙に立候補して、当選をすることができて、4期10年間衆議院議員を務めました。衆議院議員というのは、テレビにもよくある、すべての議員が出る本会議に出るほかに、委員会に所属して委員会に出席しなければなりません、あるいはすることができると。その委員会というのはいろいろあるのですけれども、私が多く所属した委員会が経済産業委員会と文部科学委員会でありました。
経済産業委員会というのは、まさに産業技術を所管する委員会であって、最初は無役の一委員として委員会に所属していたのですけれども、だんだん当選回数も4回となりますと、最後は野党筆頭理事ですね。これは、所属していた民主党の代表ということだけではなくて、民主党、社民党、共産党ですね、その野党全体の代表として委員会の日取りから始まって何を議題にするか、そして採決をするかしないか、そういうことを与党の代表と一緒になって決める、そういう野党筆頭理事の仕事を最後にはしていました。
そして、文部科学委員会との関係では、民主党ネクスト文部科学大臣という、これは民主党の文部科学政策の最高責任者という意味でありまして、政権交代したら、そのまま本当の大臣になるという、そういうものであります。政権交代は、私が衆議院議員の間はありませんでしたので、終始ネクストのままで1年ぐらいやって終わったのですけれども、こういう立場から教育のほうと科学技術の関係について関与していました。
それから、議員連盟というのがあります。これは、衆参国会議員が自由に所属するクラブとかサークルみたいなものなのですけれども、科学技術と政策の会というものに入っていましたし、あと日本宇宙議員連盟という、そういう日本における宇宙開発とか、日本と外国との宇宙開発協力に関していろいろ世話を焼く、そういう議員連盟にも所属をしておりました。
最後、「5 岩手県と技術」という話にいく前に、このジョンズホプキンス大学についてちょっと説明を加えますけれども、アメリカで最初の総合大学と言われているのですね。アメリカで古い大学といえば、ハーバード大学とか、そういうほうが古いのではないかと思われるのですけれども、大学そのものの古さはハーバード大学とかアイビー・リーグに入っているようなイエール大学とか、そういうところのほうが古いのですけれども、ジョンズホプキンス大学というのは、ドイツ型の総合大学をアメリカにつくった最初なのです。
ちょっと大学の歴史みたいな話になるわけですけれども、世界で一番古い大学というのは、たしかイタリアにある大学だったと記憶しているのですけれども、もともと大学というのはキリスト教の教会の教会学校から始まっているのですね。立派な神父さんになるための教育、聖書はラテン語で書かれていましたので、ラテン語の読み書きが自由自在にできなければならないというところから始まって大学というものが発達しているのです。そして、だんだん教会学校がそういうキリスト教に直接かかわる学問だけではなくて、歴史全般とか、いろいろ教え始めるのですけれども、なかなか理系分野については大学で扱わなかったのです。アメリカのハーバード大学もアメリカ建国よりも昔、まだイギリスの植民地だったころに教会学校と、あとは法律学校、地元の弁護士さんたちが後輩、後継者を育てていくために法律を教える、そういう法律学校と教会学校が組合わさってハーバード大学というふうになっていました。
そういう大学というのは、もともと文系中心だったのですけれども、これをがらりと変えたのがドイツなのですね。ドイツという国は、1870年に統一ドイツというのが誕生しています。明治維新が1868年ですから、明治維新の2年後にドイツという統一国家は誕生しているのです。それまでのドイツというのは、プロイセンとかバヴァリアとかに分かれていまして、日本で言えば藩に分かれていたわけですね。日本もある意味江戸時代というのは、南部の国は南部の国で一つの国、伊達藩は伊達藩で一つの国、それぞれ独自の法律、独自の通貨、独自の軍隊を持っていて、一種独立国のようになっていたのが明治維新で日本国として統一された。ドイツも同じころに同じような統一をされていて、ドイツは周りにフランス、イギリスとか、ロシアとか強国に囲まれているので、そういったところに負けないようにということで科学技術教育に物すごく力を入れたのですね。それで、文系科目中心ではなく、むしろ理系科目中心の理学部とか工学部とか、あとは医学部とか、そういう理系中心の総合大学というものをドイツはどんどん建てて、それで国民の教育をやって、科学技術で一気に世界の先頭に躍り出るわけです。
このままではドイツにおくれをとるということで、ジョンズホプキンス大学というのをアメリカがつくるのですけれども、それはもう20世紀に入ってからなのですね。ですから、日本の明治維新よりもちょっとたってからの話でありまして、そういう理系科目の本格的な教育、高度な理系科目の教育の歴史というのは、結構新しいものであります。そういう中で、ドイツ式が世界じゅうに広がって、日本でもそういうドイツ式の総合大学というものを国策として採用して、あちこちにつくっていったというのが日本における科学技術教育の歴史の始まりであります。
昔は、国と国が戦争するということがしょっちゅうでしたから、戦争に勝つためという目的に科学技術教育も導入されていたわけですけれども、第一次大戦、第二次大戦という悲惨な2度の世界大戦を経験して、今の世界はもっと優しくなっているといいますか、国と国が直接激突するような戦争というのはもうしないようにしましょうということが今は大分徹底されています。
科学技術もそういう戦争のために導入されるのではなくて、人々の生活をよりよいものにしていくために科学技術が活用されていく、そういういい時代になってきていると思います。
そこで、最後のこの「5 岩手県と技術」というテーマなのですけれども、第1次産業、第2次産業、そして第3次産業すべてにおいて技術革新が今求められていると思います。普通技術革新というと、第2次産業イコール工業の分野について言われることが多いと思います。もちろん工業の分野についても、まだまだ技術革新というのは求められています。
しかし、同時に農林水産業、この分野でも技術革新は求められています。実はもともと農業というのは、科学技術の最先端でありまして、種の品種改良でありますとか、それを植える土壌、水、そういう土や水の改良でありますとか、宮沢賢治の世界にも通じるのですけれども、科学的に分析して、そこにいろいろ技術的に手を加えて、よりよい生産を確保していくというふうに、もともと農業というのは非常に科学技術的な産業なのですけれども、今はさらにそれを農業生産物を加工して付加価値を高めていくというところに今新しい技術革新が求められています。
岩手県の県北から岩泉町や川井村のあたりにかけて、ヤマブドウというのがとれるのです。このヤマブドウは、従来ジュースにして飲むということは盛んに行われていました。あれをジュースにするだけではなくて、パンに練り込んでヤマブドウパンにするとか、スイーツに活用していくとか、あとはサプリメントにするとか、そうやって工業的に加工を施して、より高く売れるようにしていく、そういう試みに今岩手県は取り組んでいます。
水産業においても、とれた魚をそのまま売るよりも、加工して売るほうが高く売れて、地元により多くのお金が落ちますので、そういう加工技術、より衛生的に、より効率的に、そしてより質の高いものをつくる、そういう技術が求められています。岩手の経済を考えていくときに、この岩手の豊かな自然というのは物すごい優位性ですから、広い県の、そして冷涼な気候、冬に雪が降るとか、それから寒いとかというのは一部ハンディキャップでもあるのですけれども、でも涼しいがゆえに虫や病気の被害、農産物の病虫害が余り起きないのですね。だから、農薬の量が少なくて済む。また、畜産、酪農が盛んなので、そちらの動物のふんを肥料に活用することが大々的にできるので、化学肥料も余り使わなくて済む。非常に環境に優しいエコな農業を岩手では営むことができます。全国的にも世界的にも食の安心、安全ということが強く求められていて、岩手はそういう安全、安心な食料を生産する非常に優位性があるので、そういったところに技術革新が求められています。
今岩手の食料自給率というのは大体105%で、100%以上の自給率ということは、これは岩手で全部消費し切れなくて、岩手の外に売っているということです。5%分だけ売っているわけではなく、実は生産したうちのかなりが岩手県外に出していて、また岩手の人たちが消費する食べ物も岩手の外から取り寄せて食べているものも多いので、差し引き105%ということになっているのですけれども、これはもっともっと高めることができるし、高めていかないとなかなか岩手の人たちの暮らしは楽にならないと思っています。
そして、そういう農林水産業の上にすぐれた加工の技術、そしてまた農林水産業と関係ない分野でも、すぐれた工業技術、産業技術によって世界に通用する最先端の工業製品を生産して、どんどん輸出もして、そこで岩手の人たちが岩手の中で稼いで、食べていくことができるわけです。
それで最後、第3次産業であります。第3次産業における技術革新、これはまず情報産業、IT関連ですね。ソフトウエアの開発とか、ホームページの作成なんかがわかりやすい分野ですけれども、そういうところをこれからどんどん伸ばしていかなければならないと思います。そして、会社の経営においてもパソコンやインターネットを活用することで、経営の中身まで革新をしていく。技術の革新が経営の革新にもつながっていく、そういう工夫が求められています。
平泉の世界遺産登録をめぐって、ユネスコ関係者といろいろ話をすることが多くなったのですけれども、ちなみに平泉は去年世界遺産登録が延期になってしまったのですけれども、あれは平泉に価値がないから登録延期となったわけではなくて、価値はあるのだけれども、平泉の価値を説明する文章の作成に当たって、世界遺産総会の会議に出てくる参加国のみんなが合意するに至らなかったので、登録延期となっているのが実態でありまして、その価値の説明の文章をちゃんとみんなが合意できるような内容に書きかえて再提出しようという作業を今国と地元が連携してやっています。この作業は3年間かけてやろうということで、去年、今年、来年、ですから再来年にはこの作業に基づいて世界遺産登録できるだろう、しなければならない、そういう見通しで作業しています。
話を戻して、ユネスコが今着目していることにcreative cityというのがあるのです。日本語で言うと創造都市、それは創造産業(creative industry)を伸ばして、地域の活性化を図っている都市のことなのですが、しからば創造産業というのは何かといいますと、情報、文化を付加価値にして、経済的な収入が得られるようにしていく、そういう産業です。ソフトウエア開発とか、そういうIT関係の産業、コンテンツ産業と言われるアニメ、ゲーム、音楽、映画、そういった分野、あとは伝統的な演劇、お芝居、あと郷土芸能のようなものでありますとか、あとは平泉のような文化財、盛岡市鉈屋町界隈の昔の町並みを残している、そういう昔の町並みの保存、そういう情報、文化にかかわる産業、これをどんどん伸ばしていくことでまちの発展を図る、そういう都市を創造都市と呼んで、日本からは神戸市と名古屋市だったかな、そこがユネスコのcreative cityに登録をされています。
私は、岩手もそういうcreative city、創造都市にどんどん挑戦していくといいのではないかと思っていまして、盛岡みたいな大きい都市は、盛岡という単位ですぐに挑戦できると思います。奥州市とか、一関市とか、北上市、花巻市、そのくらいのサイズでもいけるのではないかと思います。一方で人口1万人に満たない町村、英語でcityとは呼ばれないようなところにおいても、そういう情報、文化で何か傑出したいいものがあればcreative cityとしての発展が期待できますので、cityとは言わず、creative町村でもいいし、そうやってみんながやっていくと岩手全体がcreative岩手とでもいうような、創造の県ですね。そういうふうになっていくのではないかと思います。
第1次産業、第2次産業、第3次産業を足腰の強い、構造的にしっかり厚みのある、そういう経済構造で、しっかり働いて稼ぐことができる岩手県というのをつくっていかなければならないと思います。その中であらゆる分野において技術革新が求められていくことでありまして、この県立産業技術短期大学校で学んでいる皆さんにも、活躍の場というのは無限大にあるのではないかと思っています。ぜひそれぞれの身につけたものを生かしながら、またどんどん新しいものにも挑戦しながら、世のため、人のために役立ちながら、自分も充実した自己実現をしてほしいなということを述べて、私からの話は終わります。ありがとうございました。

司会
ご講義ありがとうございました。
それでは、引き続き20分くらいですけれども、意見交換に移りたいと思います。ご意見、質問がある方は手を挙げて、発言してください。時間が限られておりますので、積極的にお願いしたいと思います。それでは、質問、意見ある方は挙手をお願いします。

質問者
メカトロニクス技術科の学生です。これからの時代の中で岩手県がこの先生き残るためには、ほかの県よりも特に秀でている部分を伸ばすことが必要だと考えているのですけれども、特にすぐれている部分、またはこれが全国で一番だろうと考えている部分であったりとか、全国に売りに出せるのではないかという岩手の部分について知事はどう思っていますか。

達増知事
たくさんあるのですけれども、岩手は全国1位というのは、漆の生産量とか、あとはリンドウの生産量とか、雑穀の生産量、短角牛の生産量、アワビの生産量とかいろいろあるのですけれども、ただ、目指すべきというか、達成しなければならない目的は、岩手においてちゃんと働いて稼ぐことができる、できるだけ稼ぎをふやして、自由にいろんなことができるようにするということなので、必ずしも日本一になっていなくてもいいのです。例えば量から言うと、岩手の畜産関係で鶏肉の生産量というのが全国3位、牛肉が全国5位だったりするのですけれども、そのぐらいあればかなり多くの人がそこで働いて稼ぐことができる。そういう意味では、総合力ではないかなと思っています。
総合力ということに関して言うと、これはある大手百貨店の物産展担当の人から聞いたことなのですけれども、都道府県別の物産展をきちんとある程度大きい規模でやることができる、そういう都道府県は全国に5つしかないというのですね。その中に岩手県も入っているそうなのですが、これは、海のものも山のものもあって、また伝統工芸品とか、それからスイーツみたいなそういう加工品もあって、総合力において岩手は全国都道府県の5本の指に入っていると。そういう総合力を伸ばしていくことが働いて稼いでいけるということについては重要なのかなと思っています。総合力を伸ばしていく中で、その中で全国1位になるような傑出した分野というのはたくさん出てくるのでありましょう。そこは何かに的を絞ってそこに集中させるというよりは、総合力を高める中で、結果としてそういう1位をとるものが出てくるというふうに政策論としてはなるのかなと思っています。

質問者
ありがとうございました。

司会
引き続きいきたいと思います。

質問者
電子技術科の学生です。自分は県北出身で、就職活動のときに県北を中心に企業を探したのですが、ほとんどありませんでした。自分以外にも県北出身の人や県北の高校に通う人の中には、地元で働きたいと思っている人も多いと思います。それで、県北の産業などを発展させていく取り組みは何かありますか。

達増知事
県北のいろんな地域資源、いろいろあるし、また優秀な人材もたくさんいて、可能性は非常に高いところだと思います。課題は、仕事がないわけではないのだと思っていまして、仕事はやれば、何かつくれば売れるし、それからサービス業でもそういうサービスをここで始めれば、それはお客様がついてくるのではないかと思うのですけれども、経営者が足りないということだと思います。つまり雇ってくれる人がいないと、仕事がなかなかないというのはそういうことでしょう。人を雇おうという人が県北には少ないということが問題の本質だと思っていて、そういう意味ではこの産業技術短期大学校も含めて、高校で学ぶ以上の高等教育を受けられた皆さんは、経営も自分たちでやるというのを視野に入れてもらうといいなというふうに思っています。そうすると、自分の技術、また自分の仲間の技術、それを使ってどういうビジネスができるかという、そのビジネスのところまでやってもらえると岩手の中にどんどん仕事がふえていくのではないかなと思っています。
ただ、経営というのはそう簡単ではありませんので、みんな必ず経営をやるようにと言われてもみんな困ると思うので、それで岩手県としてもちゃんとそういう経営能力を持った企業にまず岩手の外から岩手に来てもらうということで、県北のほうにもいろんな企業誘致をどんどん進めているところであります。
それから、地元の会社、事業所にもできるだけ規模を大きくして、人をより多く雇えるようにということを促しているところですし、そういう経営力を強化していくということが将来希望が持てる県北にしていく、そして岩手全体についてもそうではないかと考えています。

質問者
ありがとうございました。

司会
よろしいですか。挙手お願いします。

質問者
電気技術科の学生です。知事が講義していただいた内容とはちょっと違う内容の質問になると思うのですが、内定取り消しや派遣切りなど就職難の現代社会となってきて、ある種の専門技術を学んでいる者でさえ無事に就職できるのであろうか、あるいはすぐに解雇されることがあるのだろうかという不安が少しばかりあります。学生が希望の持てる就職活動ができるように、岩手県ではどのような対策を考えているのかお答えください。

達増知事
派遣関係の雇用している大きい会社には、いわゆる雇い止めということはしないように、そしてこういう厳しい時期であるけれども、できるだけ雇用を維持していくようにということを、いろんなルートでお願いをしているところです。
そして、地元中小企業でも少人数ながら大事な技術、技能を持った人たちを雇っている、そういう地元企業に対しては、資金繰りに困っている場合には普通以上にお金を借りやすくしたりとか、そういう融資の仕組みを充実させているところです。
あとは、こういう時代のアドバイスとしては、専門家同士の結びつきを強くしていくことが大事だと思っています。建築設備科ということであれば、そういう建築関係、建築設備関係の先輩とか、またそういうのをやっている先生方、そういう人を雇っている会社、それらが、この会社はちょっと今は人は雇えないけれども、そういう職種はこっちのほうで働けるから、こっちで働いてくれとか、うちの会社がだんだん盛り返してきたらうちにも来てもらうというような、そういう専門分野ごとの信頼関係、人間関係みたいなことを構築していくことがこういう不況を乗り切っていくのに大事だと思いますので、就職活動も含めて、そういう人脈づくり、そういうのを頑張ってほしいなと思います。

質問者
ありがとうございました。

司会
よろしいですか。ご質問がある方、挙手をお願いします。

質問者
建築科の学生です。私は今高齢者に重点を置いたまちづくりというテーマで卒業研究を行っているのですが、高齢者の住みやすい地域づくりとして、町なかに老人ホームや高齢者用の施設をつくることはよいことだと思うのですが、過疎化している地域のほうに住んでいるひとり暮らしの高齢者も生活に不便さを感じていると思います。県内で地域によって差が生じない地域づくりをするのには、どのような取り組みがあるのでしょうか。

達増知事
難しい問題なのだよね。過疎地でひとり暮らしを強いられているお年寄り、どうしてそうなっているのかというのをそれぞれ理由を突き詰めて、その理由に応じた策を講じていくしかないのだと思うのですけれども、娘、息子とかが過疎地のほうには働く場がないから、離れたところで働くしかないということで、親元を離れたところに住んで働いている。それで親がひとり暮らしになっている例、そういう場合にはやっぱり親元から通えるところに雇用の場をつくっていくということが必要になるのだと思うのです。
それから、子供がいないでひとり暮らしをしているお年寄りのケース、この場合は2通りあるわけですね。1つはそのお年寄りの世話をすることができる、面倒を見ることができる体制を過疎地のお年寄りの住んでいる家のそばに確保することと、あとはお年寄りにもっと便利なまちの中に住んでもらうというような、そのどちらかなわけであります。これも本人の希望によるし、あとはお年寄りの住んでいる大きい田舎の家というのは、いろいろ活用ができるのですよね。そこを子供を預ける託児所にするとか、いろんな農村体験の交流の拠点、都会から来た人がそこに泊まって、いろんな農作業体験ができるとか、ですからそういう施設と合わせて、そこでお年寄りのお世話ができるようにするというのも手だし、ただそこはお年寄りの希望で、そういう何かうるさいざわざわしたところに一緒に住むよりは便利な都会で、都会は都会で商店街がお店が抜けてシャッター閉めたままにしているスペースとかがあちこちにできていたら、そこをお年寄りのお世話の拠点にして、そこからすぐお世話に行けるようなところに住んでもらうと、まちの中のほうも人が住まなくなっているようなところがあちこちあいているので、そっちに移ってもらう、そういうことかなと思います。

質問者
ありがとうございました。

司会
よろしいですか。では、最後の質問に入りたいと思います。だんだん時間押してきましたので、ではよろしくお願いします。

質問者
建築科の学生です。私が4月から仕事する会社は県産材を使い住宅を建てている会社で、岩手県は豊かな自然に囲まれていますが、山を枯らさないために木を切り活用することはサイクルとして必要なことだと思うのですが、仕事をしていく中で岩手で育った木を多くの家づくりに使っていきたいと思うのですが、県産材を使うための取り組みがあれば教えてほしいのですが。

達増知事
岩手の家づくりというのをパンフレットつくって紹介したりしていますね。いろいろ地域によって気仙大工とか、あとは宮古のほうにも宮古型岩手の家というのがあったりするし、そういう各地域ごとにある伝統的な木づくりの家、そういうもののカタログをつくって宣伝したりしています。

質問者
ありがとうございました。

司会
よろしいですか、ありがとうございました。
それでは、そろそろ質疑応答の終了時刻となりましたので、以上で意見交換会は終了したいと思います。
(終了)

このページに関するお問い合わせ

政策企画部 広聴広報課 広聴広報担当(広聴)
〒020-8570 岩手県盛岡市内丸10-1
電話番号:019-629-5281 ファクス番号:019-651-4865
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。