内外情勢調査会盛岡支部懇談会における知事講演「岩手から見る明治150年(平成30年を含む)」

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ページ番号1019043  更新日 平成31年4月4日

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とき:平成30年11月30日
ところ:ホテルロイヤル盛岡

はじめに

  今年は明治維新150年を記念する年であります。政府も内閣官房に「明治150年」関連施策推進室を設け、政府が作った明治150年というポスターがあちこちに貼ってありますし、また10月23日には政府主催の記念式典がありました。
 薩長土肥、今でいう鹿児島県、山口県、高知県、そして佐賀県、この四つの西南雄藩だった県の知事さん方は平成の薩長土肥連合と銘打って、それぞれその当時の人の格好をして一か所に集まってイベントをしていましたし、北海道もこの150年には力を入れて、北海道命名150年ということでいろんなイベントを行っています。そして会津藩があった福島県では、戊辰戦争150周年、あるいは戊辰150周年と銘打って様々な事業を県や市町村が行っています。戊辰戦争ではなく、戊辰だけで地元では通用してしまうところが根深いものを感じさせます。
 岩手県では、6月23日の楢山佐渡150年遠忌という行事が今年一番大きい行事だったのではないかと思います。南部盛岡藩の最後の家老で、奥羽越列藩同盟の推進で活躍し、最後切腹しなければならなくなった、藩を代表する幕末の人物の没後150年を記念するイベントがありました。
 政府も内閣に組織を立ち上げて取り組んでいるわりには、日本全体としてこの明治維新150年、明治150年の盛り上がりが今一つと感じているのは私だけでありましょうか。
 10月23日の政府主催の記念式典にもいろいろ賛否両論があって、天皇陛下が出席されなかったことについて良かったとか残念だったとか、そこでも意見が分かれたりしていました。やはり明治維新というときに、あれは薩摩長州をはじめとする雄藩が大変進んでいて力も強く、官軍となって、遅れた弱い賊軍の諸藩、徳川家も含めた諸藩を打ち負かして日本の近代化を実現した、というイメージに対して、賊軍と呼ばれた側の地域の人たちが反発心を持つというところがあると思います。そのように官軍と賊軍ということで日本を二分してしまうところがあるというのが一つ問題点であります。
 もう一つは、明治維新が日本の軍国主義化のスタートであること、日本が第二次世界大戦に突入し、そして敗戦に至ったという歴史の出発点が明治維新だったという考え方があります。そういう考え方からすると、明治維新というのはとてもお祝いできるようなものではない。薩長藩閥政府の下、日清日露、戦争を重ねてアジアを侵略し、英米等欧米の国々とも戦うことになった、そういう悲惨な歴史の出発点が明治維新だったという考え方もあって、なかなか明治維新150年を日本中で祝うことができないようになっているのではないかと思います。
 ただ、それでは寂しいと思っておりまして、明治維新にはやはりいいところが多々あったし、ただ反省すべき点もあるので、反省すべきところをきちっと反省しながら振り返れば、明治維新はやはり日本にとって祝福すべきことだったと思いますし、また今を生きる私たちにとっても大いに参考になることだと思います。
 本日は、どういうふうに考えれば明治維新を祝福することができるかという話から始まって、薩長だけの明治政府ではなかった、しかし軍国主義化は反省すべき、また明治150年という歴史の中ではこの直近の平成30年間も反省すべき、という三つのテーマでお話しをしたいと思います。
 祝福すべき明治維新とは、要は官軍賊軍という日本の分断をしないような理解の仕方が必要だということと、もう一つは軍国主義化とイコールではないという理解の仕方です。そういう明治維新像を描く必要があると思っておりまして、そのためにも、明治維新は岩手で始まり岩手県人が完成させた、という歴史観を提示し、そして多くの方にこの歴史観を共有していただくことが大事なのではないかと考えております。

1 明治維新は岩手で始まり岩手県人が完成させた

 明治維新は岩手で始まり、と聞くと驚かれるかもしれませんが、明治維新が岩手で始まったというのはどういうことか、また岩手に明治維新を始めるだけの先進性があったのか、ということをお話ししたいと思います。

《盛岡藩の力》
 岩手の先進性の前にまず、岩手の力量、統計的な力、数字の話から始めたいと思います。それはイコール石高の話です。
 幕末時点で、南部盛岡藩は20万石の石高がありました。南部20万石と言われます。300諸侯という言葉があるように、江戸時代1万石以上の領主を大名と呼び、その約300の大名のうち、20万石だと22位です。加賀100万石と言われる加賀金沢藩が120万石でトップ、2位が薩摩72万8千石、そして3位が伊達仙台藩の62万石。全国3位の大藩伊達仙台藩がお隣りにあるものですから、南部20万石というとちっぽけなイメージを持ちがちかもしれませんが、実は22位です。
 ちなみに、長州が36万石、会津が28万石、土佐が24万石ですから、盛岡藩の20万石は土佐の24万石に匹敵する石高、物量的にこの西南雄藩にひけを取らないだけの力があったということが言えると思います。
 ただ、盛岡藩はもともと10万石でした。それが江戸時代の途中で領地が広がったわけでもないのに10万石から20万石に格上げされてしまったので、藩の財政は困窮しました。江戸時代後半の盛岡藩は経済財政の面からするともう全国有数の困窮藩でした。
 10万石という石高が300諸侯のうち何位にランキングされるかを申し上げますと、41位から53位までのところに10万石の藩が並んでいます。10万石のままだったとしても、40番台に入っていたということで、それはそれで有力な藩だったと言えると思います。

《「明治日本の産業革命遺産」橋野鉄鉱山》
 さて、それでは先進性の話に行きたいと思います。3年前に明治日本の産業革命遺産が世界遺産に登録され、その中に岩手県釜石市の橋野鉄鉱山が入っていたということで、驚いた方も多いのではないでしょうか。
 明治日本の産業革命遺産は、23の構成資産のうち21が九州と山口県にあります。それはイコール薩摩、長州、また肥前など、西南雄藩の中にあった構成資産がメインになっています。残り二つは幕府天領だった韮山、今の静岡県、と釜石市の橋野ということで、西南雄藩ではなかった所、あえて賊軍という表現を使えば、そちら側の藩だったのは、岩手の釜石だけであります。
 もともと九州・山口の近代化産業遺産群というタイトルで世界遺産登録を目指していました。ところが、海外の研究者も含め、専門家の意見をいろいろ聞く中で、幕末から明治期にかけての日本の近代化というストーリーを作っていくためには、日本の近代製鉄の元祖、初めて日本で近代的な製鉄が成功した釜石橋野を外すわけにはいかないだろう、という専門家の助言を受け、橋野鉄鉱山が加えられることになったと聞いています。
 岩手県の先進性について、私は、岩手県出身の総理大臣が4人も5人もいたということで、岩手には意外な先進性があるのではないかということを以前から考えていました。総理大臣が4人5人というのは、東条英機を入れれば5人で、入れなくても4人。4人だったとしても長州よりは少ないけれど、薩摩、土佐、肥前よりは多い。そういう西南雄藩に匹敵する、あるいは一部西南雄藩を凌ぐ力、また先進性が岩手に何らかの形であったのだろうか、ということを漠然と考えていたのですが、この橋野鉄鉱山が世界遺産の中に含まれたということで、やはり幕末の岩手は西南雄藩に匹敵する先進性があったということを確信いたしました。

《近代製鉄の父 大島高任》
 いろいろ調べてみますと、大島高任という人物が傑出しています。橋野鉄鉱山が日本で最初の近代製鉄に成功した背景には、露天掘りで採ることができた質の良い鉄鉱石という資源があったということ。そしてもう一つ、大島高任という人物が開発の先頭に立ったということがあって初めて成功したと言っていいと思います。
 当時日本で最先端の、オランダ語の製鉄、特に大砲づくりの本を翻訳し、日本中の近代製鉄をやりたい、大砲を作りたいという人や藩から引っ張りだこになっていた大島高任であります。
 今の盛岡市に生まれている筋金入りの盛岡藩士、大島高任は、1863年に「藩政改革書」という文書を書いて、盛岡藩に提出しています。1863年、これは橋野での製鉄に成功した後で、そして明治維新の5年前です。藩政改革書を読んでその先進性に私は驚きました。
 まず総論として、次のようなことが書かれています。「南部の国は、稍寒の地とはいえ、土地は広大、天下無双である。山には金銀銅鉄、海には魚塩、野には牛馬、田には五穀、糸麻そのほかの産物も、また挙げて数え切れない。今、財を理する法を行えば数年を経ずして、天下無双の富を得るであろう。」というまさに雄藩としての構想を提示しています。
 その中には、殖産興業、富国強兵的な政策が並べられていて、義務教育も提言しています。「お国中の諸士分の子弟は申すに及ばず、末々の子弟に至るまで、七歳より十五歳までの間は、必ずこれを小学校に出し、時刻を限り課業を定めて、和漢・西洋の書を読み、算筆を仕法なされば、必ず童子の才気、秀発となり無知無盲の者は絶えることになる。」という非常に具体的な義務教育の政策を提言しています。
 さらに驚くのは、資金調達の方法として債券の発行を提言しています。藩は国、南部のお国でありますので、国債のことを国借銀札と呼んでいますが、「国借銀札とは、不時、多分の金子が入用となった事態に、年限利足を定めて、これを、国中から借りる意である。たとえば、その手形の形である。」と言って図を示し、「この図のように、表には元銀の高、裏には四季の利足高などを記し、年限中はその年々の四季によって、元銀に利足を加え、元利で通用する。」という国債の運用・発行を提言していたという恐るべき先進性であります。
 明治維新の5年前というのは、新選組ができた年であり、また長州など四か国艦隊と砲撃戦を繰り広げていたところで、まだ攘夷か開国かという、欧米列強と徹底抗戦でいくのか、それとも貿易など親しくしていくのか、という方針も日本全体としてはまだ定まらず、日本が大混乱していた時代に、既に明治維新以降日本が実際に行う近代化政策を先取りして藩政改革書として書き上げていたのがこの大島高任であります。

《ロシアへの警戒、北方警備》
 なぜそのような先進性が岩手にあったのかということをさらに考えていきますと、ロシアの脅威に備えた北方警備ということが背景にあったと私は考えます。
 薩摩、長州、土佐、肥前が先進的な雄藩になっていくに当たっては、イギリスが中国に進出してアヘン戦争を起こし、中国を負かしてどんどん列強がアジアに進出しているというような情報が薩摩にいち早く入りますし、また西日本ではそういう情報が近くにあり、長崎を有する肥前の国佐賀藩も長崎経由の情報が入ってきて、やはり国際関係の激変というものを受け止めて、日本が今のままではいけない、日本は変わらなければならない、という危機意識を持ったところに、諸藩の先進性というものが出てくるのだと思いますが、そういう西の欧米列強の進出よりも前に、まず北からロシアの脅威がきていました。
 1792年にロシアのラクスマンが根室に来航します。黒船来航は1853年ですから、それより50年以上前、まずロシアが根室に来ている。それを受けて幕府は、盛岡藩と弘前藩に蝦夷地警備を命じます。真っ先に日本の防衛を担わされたのは盛岡藩と弘前藩。盛岡藩の方が多い兵力を出させられましたので、主力は盛岡藩と言っていいと思います。やがて盛岡藩と弘前藩だけでは足りないということで、秋田、庄内、仙台、会津といった東北諸藩が後から付け足されていきますが、初めからしかも大兵力でずっと北方警備を担っていたのが盛岡藩でありました。
 ちなみに北方警備をやるということで10万石から20万石に加増されています。20万石の石高に匹敵する兵力を出さなければならないということで、それは大変名誉なことではありますが、藩の財政からするとこれはとんでもない大変なことであったわけです。
 ただ、経済財政的には困窮の極みだった南部盛岡藩ではありますが、外交防衛の面で当時の日本で最も先進的な活動を、1800年頃から最も大きな規模で展開していました。黒船が来航する50年以上前からそのようなことをやっていたところに盛岡藩の意外な先進性の基があると思います。

《志士第一号 相馬大作》
 盛岡藩の意外な先進性の証拠としてもう一人人物を挙げますと、それが相馬大作という人物です。
 相馬大作が日本で名を知られるようになったのは、南部の殿様が津軽の弘前藩の殿様津軽公に恨みを抱いて亡くなった、その恨みを晴らすために参勤交代途中の津軽公を襲撃するという計画を企てたことで捕まって処刑されたことが、当時江戸を中心に日本中の人たちに赤穂浪士以来の義挙だと評判になり、大変人気が出て、その後水戸の藤田東湖や長州の吉田松陰といった幕末に活躍するような人物もこの相馬大作を大変気に入り尊敬して称える文章を書いたりしています。
 特に長州の吉田松陰がこの相馬大作を気に入っていて詩も書いています。吉田松陰は相馬大作が活躍した南部盛岡藩に実際に訪れています。吉田松陰の東北旅行は、長州の歴史、中でも吉田松陰の歴史を語る上で大変重要なエピソードで、なぜ吉田松陰がわざわざ東北を旅行したのか。大河ドラマ八重の桜では、会津を訪問した所がドラマの中に出てきましたが、今の岩手青森の方まで来ています。なぜ来たかというと、この東北諸藩の対ロシアの北方警備の状況を知りたかったということが目的でした。さすが吉田松陰、欧米列強がアジアに押し寄せてきて日本もやがて欧米列強を相手にしていかなければならない、さあどうしようというときに、既にいち早くロシアの脅威を受け、それに対抗して様々手を打っていた東北諸藩の状況をこの目で見たいと東北旅行をする。それで岩手県にも来ていて、相馬大作が活躍していた場所も視察しています。
 相馬大作は仇討事件を引き起こす前に何をやっていたかと言いますと、北辺の防備なくして国家の安泰なし、ということで、北方警備に全てを捧げる、そういう活動をしていました。自分の周りの人たちがどんどん蝦夷地に行き、また帰ってきては蝦夷地の話、ロシアとの関係を聞かされる。盛岡藩の北方警備の兵士たちの中にはロシアの人たちと小競り合いを起こして実際戦闘に参加し戦った人などもいて、そういう生々しい話を聞いた相馬大作は、これはもう頑張らなければならないと思い定め、今からちょうど200年前、1818年に今の二戸市内、さらに細かく言うと金田一という温泉で有名な所に私塾を開きます。兵聖閣という私塾を開いて、200人を超える門弟を集めて、ロシアに対抗していくことができるような兵法や武芸、この武芸は剣術などにとどまらず、砲術をはじめ近代戦の訓練のようなことも含めた、非常に実践的な内容で近隣の子弟の指導に当たっていました。
 若い頃江戸で修行や勉強をしていたこともあって、相馬大作は全国に仲間がいたのですが、そういう仲間の一人と今の静岡県の浜松にも同じような塾を作って勉強と訓練をしようという計画も立てていました。実際にはその計画は実現しませんでしたが、自分の藩のことだけではなく、日本全体のことを考えて、その中で外国に負けないような強い国づくりをしていこうという意識、これは幕末の志士という人たちが大勢出てくるわけですが、志士第一号と言っていいと思います。後に吉田松陰の松下村塾で大勢の志士たちが学んで幕末や明治政府でも活躍しますが、そういった塾をベースにしながら、志ある人たちが結びつき、集まったり、ネットワークを形成したりして、そして勉強して、また武術、兵法の訓練もして、日本を変えていこうという、そういうまさに明治維新の流れのスタート、源流が実は岩手県、今の二戸市にあったと言っていいと思います。
 それがこの明治維新は岩手県で始まったという意味であります。

《岩手県南が仙台藩の魂と頭脳》
 さて、今まで南部藩、盛岡藩のことを話してきましたが、岩手県の南半分は元伊達藩、仙台藩でありますので、ここで岩手県南、仙台藩だった所の話もしたいと思います。一言で言いますと、今岩手県南になっている地域というのは仙台藩の魂と頭脳の役割を担っていたと言っていいと思います。
 まず魂の役割というのは平泉の存在です。奥州東北の王として栄えた奥州藤原氏が築き、都とした平泉であります。初代仙台藩主伊達政宗公は、自分が奥州王だという認識を持っていて、東北の第一人者、奥州王伊達政宗であると公言していました。そういう意識からすると、伊達政宗公は奥州藤原氏の後継者だという強い意識を持っていたようで、平泉を大切にし、金色堂の覆堂を新しくするなど、お金をかけて平泉の保存をしましたし、また代々の仙台藩主、伊達家の人たちも平泉をずっと大切にし続けました。
 そして頭脳というのは、仙台藩の藩校の教師や藩を代表する学者を、今の岩手県南地域から何人も輩出しています。その代表的人物が高野長英です。西洋の学術・文化など非常に先進的な学問を修めて、水戸の藤田東湖とも交流し、欧米列強の日本近海進出にも敏感だった人物です。対外政策を論じた『夢物語』という本を書いたことで幕府に捕らえられてしまいますが、そういう先進性が岩手県南エリアにもあったということです。
 仙台の藩校である養賢堂のトップ、学頭として、幕末期に大槻平泉、大槻習斎、大槻磐渓、と岩手県磐井郡の大槻一族から三人続けて出ています。この大槻一族というのは非常に優秀で、まさに仙台藩の頭脳でしたが、最後に挙げた大槻磐渓は、戊辰戦争の中で結成された奥羽越列藩同盟の中心人物として活躍をしました。奥羽越列藩同盟としてのいろいろな文書を起草したのが大槻磐渓でした。
 ちなみにこの奥羽越列藩同盟ですが、官軍に攻められてあっという間に滅ぼされた弱くて情けない人たちのようなイメージがあるかもしれませんが、当時横浜にいたアメリカ公使が、奥羽越列藩同盟が結成されたという情報を本国に送る際に、薩摩長州の西日本の軍勢よりもこっちの奥羽越列藩同盟の方が優勢だと伝えていたそうです。奥羽越列藩同盟の方が勝つのではないかという予測を伝えていました。江戸を中心とした当時の一般世論も会津に非常に同情的で、この奥羽越列藩同盟を支持する声が強く、奥羽越列藩同盟が結成された時には負けて当然と思われていなかったようです。こっちの方が勝つかもしれない、という評価が結構あったようです。会津の鶴ヶ城は非常に強い不落の城。そして今の新潟県長岡市のあたり、長岡藩は日本に3門しかないガトリング砲、新兵器というよりも超兵器と言っていいガトリング砲を3門のうち2門も持っていた。そして旧幕府の海軍、いわゆる榎本艦隊がほぼ無傷で、それが奥羽越列藩同盟とうまく連携できれば制海権も押さえることができて、そうそう負けないのではないかと言われていたようであります。ただ実際どうだったかはもう歴史の事実のとおりで、短期間のうちに敗北を喫してしまったわけです。
 岩手県南の話に戻しますと、岩手県南の旧伊達藩、仙台藩のエリアが持っている平泉に象徴されるような精神性プラス様々な実績がある先進性、これは今にも引き継がれていると思っていまして、それを象徴する一人が大谷翔平君だと思います。高野長英が生まれ育ったすぐ近くに生まれ育っている大谷翔平君でありますが、彼の名前の翔平の平の字、これは平泉の平の字を取り、そしてその平泉で活躍した源義経の八艘飛びなどの飛翔するイメージから翔の字を取ったとお父さんが言っています。大谷翔平君の翔平という名前の中にこの岩手県南の精神性、先進性が込められていて、本人は今まで誰もやったことがないようなことをアメリカに渡って繰り広げるという、そういう先進性をいかんなく発揮していると言えると思います。
 以上、明治維新の始まりの話でありまして、次はこの完成時期の話であります。

《原敬首相就任が明治維新の完成》
 今年は、原敬首相就任100周年の年でもあります。先ほどの相馬大作の私塾の設立が1818年で今から200年前。明治維新を挟んで、明治維新の50年前に相馬大作が私塾を開いていて、そこが明治維新の起点と捉えられると思いますが、明治維新が完成したのは明治維新の50年後、今から100年前の1918年を明治維新の完成期と捉えると、明治維新は結果として平民宰相原敬による日本初の本格的政党内閣を誕生させたということで、民主化革命として成功したのが明治維新、と捉えることができると思います。
 平民宰相ということからも、明治維新の良さは身分制の打破というところが大きいわけです。士農工商、そして武士の中でも非常に厳格な階層秩序があって、その身分制というものをベースに世の中が動いていた江戸時代をやめて、身分に捉われない近代社会、そういう国にしたのが明治維新だと言うのであれば、この平民宰相原敬誕生をもって明治維新の完成と言えると思います。
 そして同時に、民主化革命としての明治維新。明治維新は薩長藩閥政府を生み出して、独裁の行政が繰り広げられたというところもありますが、同時に自由民権運動が日本中に広がり、そこから議会の開設や憲法制定などを政府もやらなければならなくなり、政党も誕生し、国の民主化が進んでいくプロセスでもありました。
 原敬が日本初の本格的政党内閣を組織したことで、国民の投票に基礎を置く政府が作られたという意味でも、民主化革命の成功という意味でも、この明治維新を祝福することができると思います。

《デモクラシーと国際協調》
 原敬首相はアメリカを敵に回してはならないという強い確信を持っていて、対米協調主義を全面に押し出します。当時アメリカは、中国の門戸開放、日本が日露戦争で獲得した満州の権益などを日米共同で投資をして開発しましょうということを持ちかけていました。原敬首相が暗殺されていなければ、原敬首相の指導の下、あるいはその後継の内閣において、日本はアメリカと連携し、さらにイギリスやフランスなど他の欧米諸国とも連携しながら満州の開発を経済ベースで進める、軍事力による満州征服ではなく、経済ベースで満州に投資をしていくという道を進んだと思います。日本以外の国が満州を制圧、例えばロシアが満州を制圧するとやがて朝鮮半島にも入ってきて日本を侵略するのではないかという危機意識が幕末からありますが、満州が国際協調の平和の地になれば、朝鮮半島を軍事的に押さえておく必要がなくなりますので、韓国を併合していましたが、韓国の独立という方向にもっていくことができた可能性もあると思います。
 こうしたことから、原敬首相就任までを明治維新の歴史という見方をすれば、軍国主義化につながらなかった可能性もありますことから、国民全体で言祝ぐことができる明治維新として今日祝うことができるであろうと思うわけです。
 残念ながら原敬首相は暗殺され、原敬の後継者が育たないうちに終わりましたが、原敬が生きていたら元老になっていただろうという説があります。元総理大臣の有力な人物は元老となってその後の総理大臣を選んだり、国の重要政策を決めたりすることに関与することができましたので、総理から元老へという形で原敬の時代がその後10年20年続いていったとすれば、日本の軍国主義化ということは起きなかったのではないかと思いますが、でも実際にはそうはなりませんでした。

2 大東亜戦争を始めたのも終わらせたのも盛中出身者

 「大東亜戦争を始めたのも終わらせたのも盛中出身者」という言葉は、まず盛中というのは旧制盛岡中学校、今の盛岡第一高等学校のことですが、私が盛岡一高に在学中よく卒業生や先輩から聞かされていた言葉です。ちなみに先ほどまでのテーマ、明治維新は岩手で始まり岩手県人が完成させた、はこの大東亜戦争を始めたのも終わらせたのも盛中出身者を文字ったものであります。

《軍国主義化》
 大東亜戦争を始めたのも終わらせたのも盛中出身者、それは誰かと尋ねますと、板垣征四郎、そしてもう一人が米内光政です。この二人は旧制盛岡中学校の卒業生で、二人とも盛岡人です。
 満州事変を始めたのは板垣征四郎。関東軍の高級参謀として、石原莞爾が立てた満州事変計画を承認し、ゴーサインを出して満州事変を引き起こしたのが板垣征四郎です。板垣征四郎はそのことをもってA級戦犯となり、A級戦犯として処刑された7人のうちの一人でもあります。
 板垣征四郎が満州事変を引き起こしたため、日本は国際連盟を脱退することになります。国際連盟は、初代事務局 次長に、やはり盛岡出身の新渡戸稲造が就いていて、新渡戸稲造の跡を継いだ事務局次長がこれまた旧盛岡藩士の家柄の杉村陽太郎という岩手県人です。満州事変勃発からこの国際連盟離脱のあたりの事務局次長に杉村陽太郎が奔走していたという皮肉があります。

《戦争の終結》
 米内光政は大東亜戦争を終わらせた方に当たります。太平洋戦争と言っても、第二次世界大戦と言ってもいいのですが、最後の内閣の海軍大臣として戦争終結の側に立って尽力し、命を懸けて終戦に持ち込んだことに貢献した米内光政であります。
 ただし、1937年、日華事変や日支事変と言われる第二次上海事変の際に海軍大臣として強硬策を主張したこともあるため、100%反戦だったわけではないというところがあるのは要注意であります。
 ただ日本が最後終戦を決めるに当たって中心人物として活躍しましたので、昭和天皇の言葉として、「米内内閣(一時は総理大臣もしていました。1940年に総理大臣を務めています。)だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない。」という言葉があるそうです。

《岩手出身の軍人》
 板垣征四郎と米内光政は、1938年第一次近衛内閣が改造された後、揃ってそれぞれ陸軍大臣、海軍大臣に、同じ内閣の中で二人が同時に大臣になったことがあります。その時のことを松田十刻という盛岡市の作家さんが書いていて、「板垣が陸相に就くと、とたんに岩手は『軍国岩手』としてもてはやされた。何しろ陸軍大臣と海軍大臣が、ともに明治維新で賊軍とされた旧盛岡藩出身の士族であり、盛岡中学で板垣は米内の後輩にあたる。」「岩手という地名は軍国主義の風潮を背景に、明治維新の薩長がそうであったように、一種のステータスシンボルのようになった。」と当時そういう雰囲気だったそうで、それにはなるほどそうだろうなと思わせられます。
 軍国岩手などという言葉が当時あったようですが、板垣・米内の他に、海軍では、まず斎藤実、総理大臣にもなりましたが、この人が海軍大将になっています。以来、岩手出身の海軍大将は5人もいます。斎藤実の後、雅子妃殿下の曽祖父でもある山屋他人、そして栃内曽次郎、米内光政、及川古志郎。特に戦争の時代に米内光政、及川古志郎と二人も海軍大将が出ていて、二人とも大臣にまでなりますし、米内光政は総理大臣にまでなっています。
 陸軍では、板垣征四郎が陸軍大将になっていて、陸軍大臣にもなっていますが、その次が東条英機です。東条英機という人は、東京に生まれ育っていますが、お父さんの東条英教が盛岡藩士の息子として、非常に強い岩手県人意識を持っていて、それを東条英機にも伝えていたようであります。東京で岩手県人会や盛岡人会があると東条英機はそれにしっかり出ていたそうですし、そうしたことから岩手出身の総理大臣に東条英機を入れて5人と数えることがあります。

《東条英機のリーダーシップ》
 大東亜戦争を始めた板垣、終わらせた米内の間にこの東条英機という人物がいます。よくあの戦争というのは誰が総理大臣であっても止められなかったし、誰が総理大臣であってもあのようになったと、日本はドイツのヒトラー独裁やイタリアのムッソリーニ独裁とは違って、総理大臣も軍部に振り回されてあまり権限はなかったことから、東条英機も仕方がなく戦争に巻き込まれていったというような説もありますが、いろいろな東条英機にまつわる研究や書かれたものなどを読みますと、やはりかなり問題が多かったと思われます。最近ですと昭和史関係の作家として大変有名な保阪正康さんが話したり書いたりしています。東条英機という人は合理的な思考が一切なく、目の前の戦いに集中し、目先の勝利にこだわった。ひたすら直線的に進む戦い方をし、また誰よりも人事権を行使した人で、反対する人間に懲罰人事をたくさん下した。一方で、イエスマンの部下は能力があろうとなかろうと取り立てた、という評価です。明確な戦略を持つ有能な陸軍将校や、また軍事は政治の下にあるべきと考えるような陸軍将校、そして陸軍が政治や外交のチェックを受けなければならないと考えていたような陸軍将校は、東条英機によって大体中央の要職から追われていったと言われています。
 東条英機がもう少し何とかしていれば、実は日本はあのようにはなっていなかったのではないか。また東条英機以外の人があの時総理大臣になっていれば、あそこまでひどいことにはなっていなかったのではないかということがどうも言えそうであります。
 「明治維新は岩手で始まり岩手県人が完成させた」は、岩手の意外な先進性を知ってもらう話でしたが、「大東亜戦争を始めたのも終わらせたのも盛中出身者」、そしてその間には東条英機という人物がいるという話は、実は日本の軍国主義化やあの戦争の顛末に関して、岩手県出身者がかなり大きな影響を与えてしまっていたということ。そこはやはり岩手県人としては率先して反省しなければならないと私は思います。言わば身内の仕出かしたことでありますから、他の人たちが批判糾弾するよりもむしろ岩手県民がきちんと調べて反省すべきことを反省し、それを今の世の中、これからの世の中に生かしていくよう努力していかなければならないのではないかと考えます。

3 戦後の岩手

 明治150年の中で日本全体の運命に大きな影響を及ぼしてきた岩手県であり、岩手出身者でしたが、平成の30年の前に昭和の戦後史を振り返ります。

《初の民選知事 国分謙吉》
 戦後初めての民選県知事は国分謙吉という農業を経営していた人物で、農民知事と呼ばれました。戦後最初の知事選挙では、全国で官僚出身者が3分の2を占める中、農民知事として人気があった国分知事であります。

《民選二代目知事 阿部千一》
 二代目の知事は阿部千一という人物ですが、戦後岩手の骨格はこの人が決めた、この人が作ったと言っていいと思います。国分謙吉知事の副知事として辣腕を振るって戦後復興を軌道に乗せ、またカスリン・アイオン台風という戦後直後の岩手を襲った巨大災害からの復興もうまく舵取りをしました。
 カスリン・アイオン台風からの復興の中で、北上特定地域総合開発計画を作り、国土総合開発法の全国初の特定地域指定に結び付け、国の事業として北上川の治水、五大ダムの建設を成し遂げました。
 また、県の医療局を作ったのも、そして五大ダム、北上川治水の関係で工業用水や発電をする企業局を作ったのもこの人物です。今ある県の庁舎を決めたのもこの阿部千一知事で、当時全国トップクラスの巨大庁舎、県庁舎としてだけではなく、日本に当時存在したビルの中でもトップクラスの巨大なビルを50年以上前に県庁舎として建てました。
 阿部千一知事は朝鮮総督府のキャリア官僚でした。朝鮮の市や道の市長や知事など様々務めて、植民地開発と言いましょうか、何もないところに新しい開発をしていくことが得意でした。そういう経験が戦後荒廃した、また災害にも襲われた岩手を復興させていくのに非常に役立ったと思われます。

《岩手発展の基礎を築いた歴代の知事》
 三代目は千田正知事。大県構想という名の下に、岩手の開発政策を様々展開した人物です。ニューヨークにあるコロンビア大学を出た後ロンドン大学にも入り、上海で貿易会社を切り盛りして名を上げました。上海の日本人社会で非常に頼られる中心人物で、上海人脈をベースにして戦後無所属で参議院議員に当選します。そういう方が三代目の知事でありました。
 四代目の中村直知事は、新幹線、高速道路、花巻空港のジェット化など、高速交通化を軸にしながら岩手をさらに発展させた人物です。
 五代目の工藤巌知事は、当時四大イベントと呼ばれていた、ねんりんピック(全国健康福祉祭)・三陸博(三陸・海の博覧会)・世界アルペン(アルペンスキー世界選手権)・国民文化祭を成功させ、そして県立大学の設立、県立美術館の建設などを決めた知事であります。
 工藤巌知事でもう平成に入ってしまいましたけれども、戦後昭和の知事を振り返りますと、高い土着性と同時に高い先進性が際立つ、そういう歴代の知事であったと思います。

4 小沢一郎と小泉・安倍の時代

 平成30年に入りますが、今まで岩手県人だ盛中出身者だと時代を大括りに語ってきたその続きで小沢一郎と小泉・安倍の時代として振り返ります。

《改革の時代、地方分権の時代》
 内容的には、改革の時代、地方分権の時代でした。象徴的なのは、平成元年竹下内閣でふるさと創生をやり、そして今平成30年、私たちは地方創生に取り組んでいる。地方分権、地方を良くしていくような改革をやっている、そういう30年です。地方分権を含め、広く改革というものに平成の最初から取り組んできましたが、平成30年になってもまだ改革をやり続けている。改革、地方分権をやり続けた30年と言うのか、やり遂げられなかった30年と言うのか、このあたりの詳しい話はまた別の機会にしたいと思います。
 戦後六人目の岩手県知事、増田寛也知事は、そういう改革の時代を象徴する存在、地方分権の時代を象徴する存在でもあったと思います。

《失われた30年》
 失われた30年という言葉が出てくるくらいに、地方分権の失敗、経済の低迷、そして格差社会化、また阪神淡路大震災から東日本大震災、さらに今年の一連の災害のような災害の時代でもあり、また全体として改革の失敗の時代だったのではないかと思われる30年なのかもしれません。
 ちなみにこの改革について一つご指摘いたしますと、1986年、昭和61年に前川レポートという改革案が出されます。この前川レポートは、アメリカの物を買うようアメリカ側に迫られて、輸入を増やすためにというきっかけもありますが、内需拡大を中心にした日本の改革を進めましょうという提案でした。ウサギ小屋と言われた日本の住宅をもっと大きな広々とした住宅にして、片道2時間もかかるような通勤地獄ではなく、もっと楽に職場に通えるようにする。大きな住宅、楽な通勤。そのためには首都移転も提案していたのが当時のこの改革論でありまして、地方が主役で国民の生活が確かに良くなるような改革のビジョンがこの前川レポートでは謳われていたと思います。
 私は前川レポートに描かれたような日本にするのが改革だとずっと思ってきました。前川レポートに私が接したのは外務省で働いている頃で、外務大臣がいろいろな国際会議に出たり、また総理大臣がG7サミットに出たりしていた、そういう時に前川レポートに書いている方向で日本をこうします、と言っていました、内需拡大で云々かんぬんと。その中に地方分権も入ってくるわけです。そういう国民の生活が確かに良くなるような改革をこそ目指すべきだったし、またやらなければならなかったはずであると思っております。

《日本政治の30年》
 その30年、日本政治がどのように展開してきたかを簡単におさらいすると、平成元年は小沢一郎さんが自民党幹事長になった年です。ふるさと創生竹下内閣から宇野内閣を経て海部内閣が誕生し、その時の幹事長が小沢一郎さんでした。海部内閣は政治改革をやるための内閣。ただ、湾岸戦争が勃発するなどして海部内閣は倒れてしまいまして、次に宮澤内閣。次の総理大臣を誰にするのかということを、3人の候補の面接をして宮澤さんを選んだのが小沢一郎さんということになっています。宮澤総理が政治改革に消極的だったことから、平成5年、宮澤内閣不信任案が可決され、解散総選挙を経て細川連立内閣が誕生。細川連立内閣全体の幹事長役を小沢一郎さんが務めます。ただ、翌平成6年には村山内閣に取って代わられ、平成8年橋本内閣。六大改革と言われていました。行政改革、財政構造改革、社会保障構造改革、経済構造改革、金融システム改革、教育改革の六大改革です。それが果たしてうまくいったかどうかというところですが、ただ橋本内閣も増税減税をめぐる議論の混乱から参院選で大敗し、小渕内閣に交代します。平成10年、小渕内閣の時代に自自連立という交渉が小渕総理と小沢一郎さんとの間で行われて、平成11年、自自連立内閣。小沢一郎さんは与党の党首の一人となります。これが平成12年に小渕さんが亡くなって解消し、森内閣へ。平成12年4月の森内閣誕生は小泉・安倍の時代の幕開けでもあり、森内閣を引き継ぐような形で平成13年、小泉内閣が誕生します。5年間続いてその後平成18年に安倍内閣。ただ安倍内閣の下での参院選、小沢一郎代表率いる民主党が勝利してねじれを引き起こし、安倍首相は退陣。その後福田首相、麻生首相、平成19、20年と続きますが、平成21年9月、政権交代で鳩山内閣が誕生。その後民主党政権も安倍政権に取って代わられて6年になるのが今日です。
 小沢一郎さんが中心にいて活躍していた時期を、自民党幹事長時代3年、細川連立で1年、自自連立で2年、そして民主党政権で3年と計算すると、合わせて9年。そして小泉内閣・安倍内閣の時代を全部足し合わせると12年。この計算には疑問があるかもしれませんが、だいたい平成30年のうち、小沢一郎さんが9年、小泉・安倍首相が12年仕切っていたような塩梅ですので、この30年を小沢一郎と小泉・安倍の時代と言ってもいいのではないかと思います。
 ただ、それが改革をやり続けた30年ということなのか、改革をやれないでしまった30年ということなのかという疑問は残ります。

《今上陛下のすばらしさ》
 一方、この30年間で何か良かったことはといろいろ考えましたところ、天皇陛下、明仁陛下の30年間という視点で振り返ると、大変いい30年という見方ができると思います。
 災害に際し、被災地、被災者に身を寄せられ、ハンセン病患者にも身を寄せられ、障がい者にも身を寄せ、そして平和を祈り、戦地を訪問する。日本各地、岩手県にも何度も来られました。そして島々も含め、隈なく訪問するというその姿勢。あるべき日本の姿、また国民が行うべきことをやってくださっていたのではないかと思いますし、これは改革のあるべき姿でもあると思います。
 これは明仁陛下個人として素晴らしいというところももちろんあります。歴代天皇の歴史を神武天皇から振り返ってみたときに、歴代天皇の中でも明仁陛下は非常に名君であらせられると言ってもいいのではないかというくらい素晴らしいと思います。
 また、こうしたことは天皇陛下と国民が一緒に作り上げてきたものでもあります。実際岩手県において、被災地訪問をしていただいたり、国体・障害者スポーツ大会での訪問を受けたりしました。そのような経験からしますと、国民の側がしっかり準備しないと天皇陛下のこうした公式行事や象徴としての活動はできません。平成30年間、天皇陛下と国民とが時間をかけて丁寧に準備して、そして様々な行事の形で成功させてきた、そういう積み重ねとしてあると言っていいと思います。
 国民の側から見ると、災害が多い30年間だったが故に国民の防災意識や防災力が向上したと思いますし、何よりボランティア力が向上しました。平成の前にはなかったような国民のボランティアとしての主体的な動きがみられるようになったことが素晴らしいと思います。そしてバリアフリー、インクルージョン、特に障がいのある人もない人も共に生きる共生社会の実現ということが前進した30年だと思います。
 戦争がない30年。明治にせよ、大正にせよ、昭和にせよ、日本は戦争を経験していますが、近代になって初めて戦争がない御代としての平成30年。これは国民として成し遂げたと言っていいと思います。
 そして地方の力量もこの間高まったと思います。わかりやすい象徴としてはテレビ番組で各都道府県のいろいろな地域資源、お国自慢を紹介するような番組が増えてきたと思いますし、B-1グルメやゆるキャラなどが広がりました。人口面での東京一極集中は是正されていませんし、経済的に地方が相対的に中央よりも弱いというような経済構造も変わってはいませんが、様々な点で地方が力をつけてきた30年ではないかと思います。
 それとも関係しますが、スポーツが大いに飛躍し花開いた30年でもあるでしょう。大谷翔平君の存在もそうですが、プロ野球に限らず、いろいろなプロスポーツが花開きました。中高校生の力量も高まっていると思っていまして、中高校生のスポーツでの活躍がこの30年間で飛躍的に伸びているし、また合唱や吹奏楽、書道といった文化系の活動も昭和の頃に比べると桁違いに発展していると言っていいのではないでしょうか。そういったことが地方の中で起きています。

《戦後民主主義の良い所は残す》
 地方の力量がアップし、中高生の力量もアップし、障がいのある人やマイノリティの人たちも包括していくインクルージョンも広まっていったというようなことを一言で言えば、文化が発展した、そして文化が成熟したと言っていいと思います。
 それは敗戦の灰塵の中から新憲法を作る頃に日本は平和な文化国家を目指すんだと国民みんなが深く誓ったあの文化国家というものがこの平成30年でかなり発展し、また成熟したと言えるのではないでしょうか。そうした意味で、戦後民主主義の良い所は残した方がいいと思います。
 奇しくもこの文化、スポーツ、共生社会といった分野は国体や全国障害者スポーツ大会に象徴されており、そこに天皇皇后両陛下がお出でになって全国津々浦々、各都道府県で開催されており、岩手の経験を思い出しても、そこに平成30年の良さがあり、これは後世に残していくべきものだろうと思います。

5 やり直すべきは昭和か平成か

 昭和に軍国主義化という失敗があり、平成に改革の失敗があり、そのことは反省をしなければなりませんが、ではそこをやり直すべきなのか、あるいはどうやり直すべきなのかと考えた場合に、明治維新のやり直しという発想が必要ではないかと思います。

《明治維新のやり直し》
 先ほど明治維新を国民全体で言祝ぐことができ、大変良かったことだと言いましたが、その後の軍国主義化のことや平成30年のことも視野に入れますと、明治維新は排除の論理があったところがやはり良くなかったと思います。賊軍官軍と分け、その賊軍を排除した。また脱亜入欧でアジアを排除したということも大きいです。日本の中の賊軍、そして世界の中のアジア、これらを排除するような論理があったところがやはり問題で、そうではない排除をしない愛国心を育成しながら新しい日本を作っていかなければならないと思います。
 そして地方というものが力をつけてきている中で、地方というものを基盤にした国づくりをしていくべきです。各都道府県にはそれぞれ非常に強いアイデンティティがあって、甲子園野球などの時にそういうものがみられるわけですが、それらを大事にしながらあらためて日本全体としての日本国民のアイデンティティを作っていく。そういう意味で明治維新のやり直しをしていかなければならないと思います。

《デモクラシーと国際協調》
 参考になるのは原敬のデモクラシーと国際協調で、これが明治維新の良かった所のエッセンスですから、それをこれからの私たちの進むべき道として参考にし、平成の天皇陛下が行動で示されたのもこういう方向性だったと思いますので、そういう意味でもこのデモクラシーと国際協調を大事にしていかなければならないと思います。

《軍国主義化を促した「天下統一モデル」》
 少し脱線しますが、私が学生時代に取っていたゼミの先生の主張で、幕末から明治期にかけて国際情勢を日本の戦国時代になぞらえて理解する仕方が広まっていたそうです。弱肉強食の戦国時代において、いずれ天下統一する国が出てくる。日本はその天下統一する国にならなければならないという強迫観念。その見方は石原莞爾の世界最終戦争論にも表れています。世界最終戦争では、列強の中の強国がまず四か国残り、その中から二か国残って、やがて決勝、最終戦争をする。日本はその列強の中で最終的に勝ち残らなければならない、といった妄想のような強迫観念が幕末から明治期にかけて、そして大戦の頃までありました。

《参考にすべき中国戦国時代》
 むしろ日本の戦国時代ではなく、中国の戦国時代を参考にした方がいいのではないかというのが、私の考えです。これは今の国際社会の理解にも参考になると思っています。中国の戦国時代は、大国の秦や楚、斉などが外側に、その他の中小国が内側に数多く存在しました。この大国は今になぞらえればアメリカ一国主義、またそこに中国がありロシアがある。そういう大国が激しく主張している状況。こういう時代が春秋時代で300年、戦国時代で200年、合わせて500年くらい続きます。最後は秦が中華統一しますが、それまで500年以上あったのです。そういう中でそれぞれ軍備の増強もしますが、戦争ばかりしていると疲弊して損です。王様も美味しいものを食べたいし、いろいろ楽しいこともしたい。お金が必要。軍にばかりお金をかけていられない。また、いい王様は国民をもっと豊かにしなければならない。産業を振興しなければならない。軍拡競争をする時期もありますが、お互い戦争しないようにと外交交渉で平和協定を結んだりもする。合従連衡といって、ある時は縦の国々が同盟し、ある時は横軸で組むなど、いろいろなその時の状況に合わせて外交手段を駆使しながら、なるべく平和を維持しようという、そういう国際関係が中国の戦国時代にあったわけでありまして、今の世の中それが一つ参考になるのではないかと思います。

 おわりに

《明治維新の原動力は学びと志の全国的ネットワーク》
 まとめに入りますが、明治維新をけん引したのが岩手県だったと主張する、薩摩長州だという意見と戦うなど、そういうことをやっていても不毛であります。明治維新の原動力は学びと志の全国的ネットワークです。どこかの藩やどこかの県が主導したという、そういう手柄争いをしている場合ではなく、やはり当時の人たちはみんな日本中を歩き回り、いろいろな人に会って猛勉強をしていますし、また剣術も学びと志の全国的ネットワークでして、お玉が池の北辰一刀流の千葉道場に坂本龍馬が入っていって、そこでいろんな人と知り合ったりします。
 剣術も含めて、この学びと志の場、塾が日本中にあり、そういうネットワークが明治維新を引き起こした。学習者による革命という見方もできると思います。それは世界の歴史の中では大変珍しいパターンであり、幕末維新とは非常に知的な社会運動でした。その先駆けとして相馬大作という岩手県人がいたことは多くの人に知ってほしいと思いますし、岩手県以外にもあまり全国的には知られていませんが非常に大事な役を果たした人たちが日本中にいたということだと思います。

《明治維新は岩手で始まり岩手県人が完成させた》
 岩手県、また岩手県民としては賊軍だからと萎縮している場合ではありませんし、また被害者意識ばかり膨らませているわけにもいきません。歴史を振り返ると明治150年の歴史に岩手はかなり責任がありますので、その責任を自覚してこれからの時代をより良いものにしていこうというのが今日の結論であります。
 ご清聴ありがとうございました。

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