平成30年度部課長研修 知事講話

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ページ番号1000746  更新日 平成31年2月21日

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とき:平成30年9月11日(火曜日)
ところ:サンセール盛岡大ホール
対象者:総括課長級以上の職員

「明治維新は岩手で始まり岩手県人が完成させた」

1.岩手県と明治維新の関係

 「明治維新は岩手で始まり岩手県人が完成させた」ということで、この衝撃的な結論に至るまずスタートは、今年は明治維新150年ということなのですが、岩手県にとって明治維新というのはイコール戊辰戦争ということで、何か敗北というイメージが強いかもしれません。南部藩も伊達藩も賊軍とされて、敗北した結果、明治維新後には蔑視されて苦労してきた、そういうネガティブなイメージがあるかと思います。今年は大河ドラマも明治維新もので、国を挙げて明治維新150年ということで盛り上がるかなと思っていたのですが、いま一つ盛り上がらないのは、やはり何か勝った側と負けた側がある、そういうわだかまりの歴史みたいなイメージが広く日本に広がっているということも関係あるかと思います。

 そういうイメージをひっくり返そうということが今日の話の目的なのですが、まず私が、岩手県、明治維新、敗者、弱い、だめだった、そういうイメージというものに疑問を感じるきっかけは、岩手から総理大臣が4人も出ているということです。東条英機を含めると5人ということになるのですが、さらに新渡戸稲造という日本を代表する国際人や後藤新平のように大臣を歴任して活躍する人も岩手から出ているということで、よくある説明は戊辰戦争、明治維新の悔しさをバネに努力してそうなったということなのですが、ただ総理大臣になるというのはそう簡単ではありません。逆境をバネにしたということだけでは説明しきれないのではないか。やはりもともと岩手という地域にそれなりの力があったから活躍する人材が輩出されているのではないかという疑問を持っていました。

 岩手が江戸時代から結構、力を持ったのではないかという疑問がさらに強まったのが釜石の橋野鉄鉱山、橋野高炉が世界遺産の一部として選ばれたことです。もともと九州、山口の中だけで選ぶ予定だったのですが、たしか外国人研究者だと記憶しますが、釜石橋野を入れないと産業革命とか、日本の近代化とか、そのストーリーが完結しない、日本の近代製鉄の元祖、それは岩手県釜石橋野なのだから、それを入れなければということで入ったというふうに聞いています。23の構成資産のうち21は九州と山口、残り2つのうちの1つは幕府天領だった韮山、さすが幕府ですから、薩摩、長州、佐賀、長崎のあたりの肥前、そういう西南雄藩並みの力、先進性を幕府が持っていたというのは分かるのですが、しかし当時南部盛岡藩がそれと並ぶくらいの先進性の力を持っていたのではないかというふうに思われたわけです。

2.幕末における岩手の先進性

 先進性の話に入る前に、「力」をちょっと検討してみます。南部盛岡藩で幕末の段階では20万石の石高があったのですが、江戸時代に300諸侯と言われて1万石以上の領主が大名と呼ばれていたのです。もっと小さい3,000石とか、沢内3,000石と言ったこともあり、3,000石とか数千石の領主とかもいたのですが、そういう人たちは大名ではなかったのです。大名は1万石以上の領主が大名で、300諸侯と呼ばれ、大体300の大名がいたのです。文久3年幕府大目付調というものによると、南部20万石は300諸侯のうち22位になります。1位は加賀金沢120万石、2位が薩摩鹿児島72万8,000石、そして3位が仙台藩62万石です。そして、長州萩藩は36万石、会津藩が28万石、そして土佐の高知は24万石ということで、南部盛岡20万石というのは土佐藩に匹敵するくらいの石高だったわけです。しかし、南部20万石と言うけれども、実は10万石の生産量しかないのに藩の格だけ20万石にさせられて、実入りは10万石分しかないのに20万石になったから、それに合わせていろんな仕事を幕府にさせられて、それで財政事情が非常に窮乏化していた。そんな20万石の力はなかったと思う人がいるかもしれません。そういう実態もありました。

 10万石の藩は先ほどと同じリストでは41位から53位までに並んでいます。ですから、10万石の石高としても300諸侯のうちの40番台ぐらいのところに入る、そのぐらいの力はあったということです。

 南部藩は、10万石の経済力しかないのに20万石にさせられたわけですが、なぜ20万石になったかというと、対ロシアの北方警備をやらなければならなくなって、その任務の内容が20万石相当の兵力を北海道に駐屯させるという、そういう務めを負うことになったので、20万石になったのです。ですから、財政は窮乏し、藩の経済は危機に陥るわけではありますが、ただ外交、防衛に関しては20万石並みの活動をしていたということになります。そこに幕末における岩手の先進性の秘密があるのだと思います。経済的には、ある意味では普通の10万石よりも弱い経済状態に陥っていたのではありますが、外交、防衛、そういった業務に関しては20万石クラスの仕事をしていたということがこの先進性につながると思います。

 その先進性が示されるのが大島高任が書いた「藩政改革書」です。大島高任が橋野の近代的な西洋式の製鉄所を開発するわけですが、大島高任は当時日本最大、最高の近代製鉄技術者として、日本中から引っ張りだこでした。水戸藩が招聘して、水戸藩内に製鉄所をつくる、そういう手伝いをしたりもしましたし、全国を飛び回ってアドバイスをし、そして藩の命を受けて釜石橋野を開発しました。

 この大島高任が1863年に「藩政改革書」というものを書いています。この「藩政改革書」の存在は、半澤周三という人が書いた「大島高任」という本で知りました。世界遺産の話とかもあり、2011年にPHP研究所から出た本です。2011年だから世界遺産の話が出てくる前、少なくとも表に出てくるよりは前に書かれた本ではあるのですが、この中で「藩政改革書」という章があって、そこに藩政改革書の概要が書かれています。現代語に訳されているのですが、こういうフレーズが出てきます。「南部の国は、稍寒(しょうかん)の地とはいえ、土地は広大、天下無双である。山には金銀銅鉄、海には魚塩、野には牛馬、田には五穀、糸麻そのほかの産物も、また挙げて数え切れない。今、財を理する法を行えば数年を経ずして、天下無双の富を得るであろう」と。

 そして、明治政府が採用するような富国強兵、殖産興業政策がその後展開されています。もうほとんど明治政府が明治時代になって書いたかのような政策論が明治時代から5年前の1863年に既に書かれていた。義務教育の導入も書かれています。非常に先進的です。

3.ロシアへの警戒、北方警備

 これは大島高任という人物が偉かったこともありますが、やはり当時の盛岡藩、そういう先進性を評価して仕事をさせる、そういう風土があったのだと思います。これは、今やっている大河ドラマ「西郷どん」で薩摩藩が日本の南の端にあって、イギリスがアヘン戦争、中国を植民地化していくような、そういう外国の活動がすぐ目の前で繰り広げられているというのを見ていた薩摩が近代化をしていかなければだめなのだという自覚を強めたように、岩手のほうでも北方の対ロシア警備という実務、盛岡藩の兵たちはロシア兵との小競り合いも経験しているのです。

4.志士第一号、相馬大作

 そういう危機感を最も強く感じ、そしてそれを実際の行動に移した人物として相馬大作という人がいます。私は、この相馬大作こそ志士第1号と呼んでいい、この相馬大作の存在が日本の明治維新の起点と言っていいと思っています。この相馬大作、本名、下斗米秀之進なのですが、相馬大作事件で有名です。盛岡藩主が津軽藩主に恨みを抱いて死んでしまった、その無念を晴らすために津軽藩主の参勤交代行列の襲撃を企て、それは実行されずに捕まって処刑されるのですが、これが忠臣蔵以来の義挙として、当時、江戸で、そして全国で大変拍手喝采を浴びるのです。

 明治になってからも講談、小説、映画になっていて、映画化されたその年だけ今言っていきますと、まず明治41年に映画化され、大正3年に2本映画化、大正6年、大正7年2本、大正8年、大正9年、大正10年4本、大正11年、大正15年、そして昭和2年、昭和4年、昭和6年に2本、昭和9年、昭和17年、その後は昭和31年に映画化されて以来、映画化はもうされていないのですが、戦前の日本で相馬大作事件というのはおなじみの話だったのです。

 それほど日本の常識みたいな存在だった相馬大作なのですが、明治維新上の重要人物、水戸藩の藤田東湖、そして長州藩の吉田松陰が相馬大作から強い影響を受け、2人とも相馬大作を称える文書を書いています。その2人に影響を与えたということだけでも志士第1号と言っていいと思います。

 彼の郷里、地元福岡、今の二戸市に私塾を開いて武家や町人への教育に力を入れました。200人くらい門人がいたということで、昔1万石の大名が動員する兵力が250人とか言われていたという話がありまして、そういう意味では1万石の大名に近い動員力を個人として持っていました。

5.相馬大作の開塾が明治維新の起点

 そういう塾を開いたのが1818年、今から200年前で明治維新のちょうど50年前という、そういう因縁もありますので、1818年、相馬大作が私塾を開いた年をもって明治維新の始まりというふうに見ていいのではないかと思います。

 吉田松陰が相馬大作に非常に興味を持ち、いろいろ調べて強い影響を受けたという話は、「吉田松陰 大和燦々」という小説に描かれています。これは、「花燃ゆ」という吉田松陰の妹が主人公になっていた大河ドラマをやった年にNHK出版から出ていますが、大河ドラマの原作本ではなく、内容的には大河ドラマとは全然関係なく、基本は吉田松陰の東北旅行のことだけを一冊の本にしたという感じです。

 吉田松陰の東北旅行というのは大河ドラマ「八重の桜」のときには描かれていましたが、何で吉田松陰が脱藩までして東北旅行を敢行したかというと、対ロシアの北方警備というのを調べたかったからです。外国の脅威、そして日本が国としてまとまって力を合わせて外国に対抗していかなければならないというような、そういう問題意識を持っていたのですが、相馬大作という人物がいち早くそういうことをきちんと分かって実行に移していたということで、吉田松陰は大いに関心し、私もそういうことをしようとして、萩に帰って松下村塾を開いたりするということであります。

6.岩手県南伊達領の役割

 岩手県は南部と伊達、伊達と南部に分かれているとよく言われて、それが何か岩手の問題点であるかのごとく言われるような向きがあるのですが、両方あるというのはすごくいいことだと思っております。特に伊達藩あるいは仙台藩の、今、岩手県南に入っている部分というのは、私は一言で言って伊達藩、仙台藩の魂と頭脳の役割を果たしてきたと言っていいと思います。魂の役割というのは平泉の存在です。平泉というのは伊達政宗の心の拠り所でありました。奥州王、東北の王であるということを自認していた伊達政宗にとって、その奥州王というのは奥州藤原氏の後継者だということでもあるのです。平泉を伊達政宗は大変大事にして、それは代々の藩主みんなそうなのですが、覆堂をきちんとつくったり、平泉の保護を代々やってきました。平泉が伊達藩、仙台藩の魂だったわけです。それから、頭脳の役割というのは伊達藩、仙台藩の藩校の教師でありますとか、藩を代表する学者でありますとか、そういった人たちが今の岩手県南のエリアから何人も出ているということです。その代表が高野長英なわけでありますが、高野長英もまた志士として外国の脅威に日本として対応しなければならないのではないかということにいち早く気づき、早過ぎたというか、幕府に捕まってやがてそれが原因で死を迎えてしまいます。

 岩手県南の旧伊達藩、仙台藩の精神性、そして先進性というものは、その後岩手県ができた後も岩手県が日本の歴史の中でさまざま重要な役割を果たすに当たって大いに発揮されてきたと思います。一番最近の象徴が大谷翔平君でありまして、彼の名前「翔平」というのは源義経が飛翔するイメージと平泉の「平」をとって「翔平」というふうに名づけられたというところでありまして、岩手県南の精神性・先進性のシンボルとして今アメリカで世界を相手に活躍していることは、大変すばらしいことと思います。

 原敬の話に入る前に世界遺産ということで、さっき大島高任の「藩政改革書」を紹介しましたが、世界遺産の意義や価値を理解する上では人物に注目し、またその人物が書き残したものに注目するということが大事だと思います。やはり大島高任という人物がいないと橋野の世界遺産というのはなかったわけでありますし、彼がどういう人物だったかというのは「藩政改革書」に集約されていると思います。

 平泉については、これはやはり藤原清衡公の中尊寺建立供養願文です。敵も味方も等しくその死を悼み、また人間だけでなく動物、鳥獣、魚介の類に至るまで命を大切にして死を悼むという、人と人との共生、人と自然との共生、その理念が中尊寺建立供養願文に書かれている。それを書いた藤原清衡は偉いなということなのですが、今残っている中尊寺建立供養願文というのは、北畠顕家が書き写したものが中尊寺に重要文化財として残っているのです。南北朝時代の南朝方の若き英雄、北畠顕家です。奥州王としての自覚、東北のリーダーとしての自覚は平泉、奥州藤原氏からやがて伊達政宗に引き継がれるのですが、その間に南北朝時代の北畠顕家がいるのです。

 この人は、鎌倉幕府、北条氏が滅びた後の後醍醐天皇の新政の中で後醍醐天皇から東北に派遣されて、奥州、東北のリーダーとして、リーダーシップを発揮して、足利尊氏が後醍醐天皇に逆らって南北朝の合戦が始まるとたちまち奥州の兵を率いて京に上り、足利尊氏の北朝の軍勢を打ち破って壊滅させるのです。圧倒的に強いのです。もし源義経が奥州の兵を率いて鎌倉に突っ込んでいれば、あるいは京に上っていれば圧勝したであろうみたいなことを北畠顕家は南北朝時代にやってのけているのです。そういう東北のリーダーとして非常に活躍した北畠顕家が中尊寺建立供養願文を自分で書き写したという、その気持ちはすごくよく分かるところがありまして、東北あるいは岩手で政を行うというか、行政を行うに当たっては平泉精神というのを大事にしなければならないということであります。

7.原敬首相就任が明治維新の完成

 原敬首相就任が今からちょうど100年前で、今年は原敬首相就任100周年記念でもあります。原敬首相就任をもって明治維新の完成とするのがいいと思うわけですが、今年、明治維新150周年が盛り上がっていない、先ほどは勝った側と負けた側のわだかまりという話をしましたが、そういう官軍、賊軍の地域間のわだかまりということのほかにもう一つ重要な要素があって、明治維新でできた薩長藩閥政府がそのまま日本軍国主義の中心になって日清、日露、そして軍国主義日本ができ上がって大陸にどんどん進出し、太平洋戦争を起こして、そして日本が大敗北を喫していく、そういうナチスドイツと組んで世界に仇(あだ)なす大戦争を軍国主義化した日本が引き起こす、その原点が明治維新なのだから、これを150周年記念でお祝いするのはけしからんという考え方もあるのです。

 ただ、明治維新はそこからストレートに軍国主義日本にいっているわけではなく、大正デモクラシーという形で国際協調と、それから国内の民主化というのを花開かせた時期があった、それが原敬首相就任を中心とした時期なわけです。そこが明治維新の目指すところで、そこで明治維新はひとまず完成したのだと見ることで明治維新の意義、自由民権運動が起きて、それが花開き、政党政治というものが日本にそれなりの形で誕生し、政党をベースにした内閣が組織され、それを最初にやったのが原敬なわけです。そういう近代民主主義国としての成功という側面が明治維新には確かにあるのだということは、原敬首相就任まで明治維新の範囲に入れないとそういう成功物語にはならないということです。そういう認識のもとに明治維新150周年を大いにお祝いし、寿(ことほ)げばいいと私は思っているのですが、気をつけなければならないのはその後の日本はやっぱりよくなかったということも同時に認識しておくべきということであります。原敬以降の日本のあり方を深く反省する必要が同時にあるわけであります。

8.原敬以後の日本のあり方を深く反省する必要

 原敬は、アメリカとは戦争するものではないと、アメリカとは協調してやっていかなければならないということを深く理解し、周りにもそうさせていたわけです。当時満州をめぐってアメリカは日本と共同で満州の開発をしようと日本に持ちかけるのですが、日本はそれを断って日本単独での満州支配のほうに進んでしまうのです。当時は満州や中国に何の基盤も何もないアメリカが門戸開放とか言って調子のいい、要領のいいことを言っているのだとみんな思ったのかもしれないのですが、やはり今思えばそこでアメリカと連携しながら、中国というのは軍事的に支配すべき土地ではなくて、あくまで経済ベースで投資をし、そして経済活動を行うべき場所なのだということをほかのヨーロッパ列強にも促して中国の国としての健全な成長を促し、満州については日本が軍事的に支配することなく、満州がロシアの支配下に陥るとロシアはやがて朝鮮半島を支配下に置いていつでも日本を責めに来るというのは日露戦争をやったときの日本側の理屈ですが、満州が国際協調のもとに自由な経済活動ができるエリアになれば日本はそれに対抗して朝鮮半島を武力で押さえておく必要がなくなるわけでありまして、朝鮮半島の自立独立、韓国併合を日本はしていたのですが、もとの韓国に戻す、日本から自立独立してもらうということも可能だったと思います。そういう歴史というのはあり得たわけでありまして、そういうこともあわせて明治150年ということをお祝いすればいいのではないかなというふうに思います。

 歴史というのは、かなりの部分つくられたイメージみたいなものが幅をきかせたり、またつくられたイメージが部分的にしか後に伝わらなかったりして、実際どうだったのかということがあまり知られないまま歴史というのが語られてしまうことがあると思います。事実あるいは真実ということは事実であるということ、真実であるということ、それだけを理由に伝わっていくものではなくて、そういうのは私は衆議院議員時代に非常に経験をしておりまして、それ以外の時期も含め平成30年間の日本政治の動きについてかなり私は事実関係を直接見たり、あるいは聞いたりしてきたのですが、そういった事実あるいは真実というのがきちんと日本全体に広まっているとか、そういうことがきちんと伝えられて、今の政治が行われているかというと全然そうではないという実感を持っています。

 事実だからということだけで物事は広まらないところがあり、その事実と反対のイメージが適当に伝えられて、そしてそれが広まったり、あるいは伝えられ続けるということが実際にはかなりあります。

 そういう中で、あのときあの人がああいうことをしていなければ全然違う結果になったとか、あのとき、あの人がこういうことをやっていてくれれば全然違う結果になったということが政治の世界にはものすごくたくさんあります。

 そこから私が痛感するのは、歴史というのは必然的な流れとしてあるのではなくて、やはり生身の人間、しかも自由意志を持って主体的に決定して行動できる人間がつくっているものだなということを痛感するのです。ですから、岩手の未来を切り拓いていくに当たっても岩手の未来については必然的な絶対こうなるというコースはないと思っていただきたいです。それは人によって決まる、我々の考え方、判断、そして行動によって決まっていくということです。そういう判断や行動の根拠として、やはり過去の歴史的な事実、過去の歴史に関する事実というのを根拠の拠り所にしながら事実に基づいて科学的、技術的に必然的な政策を選び、そして社会的、経済的な要請に適う政策を選んで実行していく、そういうことが大事だと思います。

 相馬大作、下斗米秀之進という存在が今ずっと忘れられたようになっているというのも、一つこれは異常なことだと思っていまして、二戸地区の文士劇で、最初は九戸政実を取り上げて、次に相馬大作を取り上げていて、これは非常にいいなと思っているのですが、やはり相馬大作という人の重要性というのをきちんと理解し、それを広め、そしてそれを参考にしながら、岩手が弱いとか、岩手が遅れているというのは、それは一つの作られたイメージで、むしろ日本全体の中でも強い方にあり、先進的な方だったというのが事実かつ真実と言っていいと思います。そういうことを基本にしながらやはり御先祖様に対して恥ずかしくないような今の県政をしていかなければならないと思いますし、さらにそういう中でも御先祖様の無念みたいなところもありますから、そういう感覚も持ちつつ、ただ幕末、維新のときに対立する格好になった西南雄藩や時の明治政府のことも同じ日本なのだからということで優しく包み込む度量も持って、明治150周年というのをお祝いしながら未来に向かっていけばいいと思います。

 終わります。ありがとうございました。

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