(社)日本記者クラブ記者会見スピーチ「東日本大震災津波 初動から復興に向けて」

ID番号 N5197 更新日 平成26年1月17日

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とき:平成23年6月2日(木曜日)
ところ:日本記者クラブ(日本プレスセンタービル10階ホール)

1 はじめに

ご紹介をいただきました岩手県知事の達増拓也です。今日は、日本記者クラブでお話をさせていただきますこと、大変光栄に思います。ありがとうございます。

岩手県は、過去にも大きな津波の被害を何度も受けていまして、明治以降でも明治の三陸大津波、昭和の三陸大津波、そしてチリ地震津波と3回大きな津波の被害を受けました。明治三陸大津波が明治29年、1896年で、岩手における死亡者1万8,158人、昭和8年、1933年の昭和三陸大津波が岩手において死亡者1,408人、行方不明者1,263人、そして昭和35年、1960年のチリ地震津波が死者55人、行方不明者6人でした。

徐々に犠牲者数は減ってきているのは、規模も小さくなってきたということと、戦後のチリ地震津波の頃には、コンクリートの近代的な防波堤、防潮堤もできてきていたということがあるのですが、そうした歴史的な変遷を経て今回の3月11日、東日本大震災における津波では、6月1日、昨日の数字で死者4,510人、行方不明者2,878人というのが岩手の被害でありまして、近代的な防災設備が整った中でこれだけの犠牲者というのは、岩手がかつて経験したことのない大災害と言っていいと思っております。

発災翌日に、私はヘリでこの沿岸地域を視察したのですけれども、陸前高田市、大槌町などの中心部が完全に津波にやられて、浸水していたり、何もなくなっていたり、およそ人間の世界のこととは思えない神話の世界の中の出来事のような印象を受けました。けれども、これは紛れもない現実でございまして、今日は「東日本大震災津波 初動から復興に向けて」というテーマでお話をしたいと思います。

2 地震・津波の規模と被害の状況

地震・津波の規模

地震がマグニチュード9.0ということで、エネルギー量としては阪神・淡路大震災の約1,400倍、関東大震災の約45倍の大きな地震でありました。

岩手県内は、最大震度が県南部の大船渡市、釜石市、一関市、奥州市など7つの市町村で震度6弱、県中央から北にかけて盛岡市などは震度5強でありました。盛岡市もかなり揺れましたけれども、地震による被害は殆どなく、県庁の知事室も本箱から本が飛び出したりとかはせず、棚の上のものもほとんど落下せず、岩手は津波では大きな被害は受けましたけれども、地震による被害は、県南部の震度6弱だったところで家屋の全壊、半壊など少なからずありましたけれども、死者、行方不明者は地震では出ておりません。

今度世界遺産登録が見込まれている平泉の文化遺産なども無事でございまして、中尊寺金色堂もびくともしていないという状況でありました。

問題は津波でありまして、地震発生から約30分後に三陸沿岸全域に津波が押し寄せまして、土木学会調査団によりますと、釜石市両石町の水門で17.7メートルの高さを記録し、6階ほどのビルに相当する高さであります。水門の段階でその17.7メートル、さらに奥のほうまで来た波がどんどん高く上がっていって、30メートルを超えたとかの調査結果もございます。

地震・津波による被害

先ほど申し上げましたように、6月1日現在で死者数4,510人、行方不明者数2,878人、そして約2万9,000人が今も避難所に依存した生活をしています。陸前高田市と大槌町では、犠牲者と行方不明者を合わせた数が人口の約1割に達しています。

被災地全域の毀損額について、内閣府は16兆円から25兆円と推計して、阪神・淡路大震災の10兆円を大きく上回るとしています。日本政策投資銀行は、岩手県沿岸部の資本ストックの被害額を約3兆5,000億円と推計して、これは岩手の沿岸部の資産全体の47.3%であり、岩手県沿岸部の資本ストックの半分近くが失われたという結果になります。

また、岩手県の漁業被害額は3,137億円と推計され、年間生産額453億円の約7倍に当たります。県内111カ所ある漁港のうち108カ所、漁船は1万4,300隻のうち9割が被害を受けました。

県内の防潮堤総延長72キロのうち41キロと半分以上被害を受けました。浸水した世帯数は約3万3,000世帯、被災市町村の全世帯数約9万6,000世帯の3割になる浸水世帯数であります。

3 初動対応

(1) 自衛隊、DMAT等との連携による救急・救助活動

本震の後、1時間位の間にマグニチュード7以上の余震が3回も発生し、鉄道、道路、電気、ガス、水道などあらゆるライフラインがストップしました。県は、発災と同時に災害対策本部を立ち上げて、すぐ自衛隊と緊急消防援助隊に出動を要請し、それぞれその日のうちに被災地に入っています。県内全域が停電となりまして、電話もほとんどつながらない状態になりました。沿岸の津波被害について、断片的にしか情報が入ってきませんでした。

このような中で、自衛隊とDMATと呼ばれている災害派遣医療チーム、そしてヘリコプターの本部、この3つを県庁に設置しまして、まずは自衛隊の通信を活用して情報収集を行っておりました。

この自衛隊の指揮所を県庁の中に置き、災害派遣医療チームDMATの本部も県庁の中に置くというのは、3年前の祭畤大橋の落橋などがあった岩手・宮城内陸地震の時にはそうではなくて、自衛隊は滝沢村の岩手駐屯地に第9師団の指揮所が置かれ、DMATは救急医療の拠点である岩手医科大学に本部が置かれていて、県庁との連絡がいま一つだったという教訓を生かし、その後、防災訓練の際には、自衛隊やDMATの本部は県庁の中に置くという前提で訓練をしておりまして、それが今回活用されてスムーズな展開になりました。

(2) 被災市町村の行政機能回復に向けた支援

被災市町村の情報が、この自衛隊の無線でいろいろ入ってくるのですが、人命救助が第一でありますので、どこそこに人がいる、助けを求めているというような情報は入ってくるのですが、市町村がどう機能しているかを知りたかったのです。断片的には、もう役場も浸水して使えなくなっているとか、大槌町役場にいた町長さんがどうも犠牲になったらしいとか、そういう情報も入ってくるのですが、自衛隊や消防の人たちは人命救助最優先なので、市役所や町村役場を見に行くとかというミッションはないわけです。

そこで、12日の朝に人事課長を呼びまして、防災のラインに直接関係していない県職員をかき集めて、12の沿岸市町村にそれぞれ複数派遣するよう指示を出しまして、丸一日かけて人集めと行き先の手配をし、その翌日13日に32人の本庁職員をそれぞれ2人から5人、12の沿岸市町村に一斉に派遣し、情報収集と同時に何か手伝わなければならないこと、手伝えることがあれば、もうその場で手伝えというふうに行かせました。

大槌町の様子などは、現地に5人入ったうちの1人が飛んで帰ってきて、今臨時の役場機能がここの公民館に置かれていますとか、避難所を幾つか回りましたが、食料が足りませんとか、そういう情報が生身の人間の伝令でようやく把握できたというところがありました。

災害対策基本法の基本的な構造は、やはり市町村が一義的な応急対応をする仕組みになっていますので、その市町村がきちんと動けないと、もう全然災害対策にならないのです。ですから、市町村がちゃんと機能できているかをきちっと把握しながら、もしきちんと対応できないところがあれば、そこを県がどんどん支援していくという考え方でスタートいたしまして、県からだけではなくて、他の市町村からの支援、また他の都道府県からの支援もどんどん入っています。

岩手県では、これまでに1日平均約90人の職員を派遣していますし、他の都道府県や他の市町村、それから国からの職員の支援は1日平均約420人と大勢現地に入ってもらっております。

3月11日以降世の中変わったという説があるのですけれども、私は地方自治に関しては大きく変わったと言っていいと思います。地方自治の現場が未曾有の被害を受け、また自治体職員が犠牲になるとか庁舎が壊れて使えなくなるとか、そういう被害を受けたのですが、まず市町村が底力を発揮して何とか対応し、それを他の市町村や都道府県が支援している。そういった自治体同士の連携の輪が広がって、今までやったことがないようなオペレーションを展開しています。

これは、地方自治の一つの進化だと言っていいと思っておりまして、かなり基礎自治体である市町村がたくましくなっていますし、お互い助け合うという新しい形ができてきていると言えると思っております。

4 現場力の発揮

(1) オール岩手で対応

市町村を中心にいかなる現場力が発揮されたかを紹介したいと思います。

3月11日金曜日に発災しまして、12日、13日が土曜、日曜。3月14日が月曜日で、さまざまな機関が動き出す日だったのですけれども、この日、私から県内のあらゆる団体、機関に向けまして、災害対策への支援を要請し、県知事の名前で支援要請の文書もつくりまして、それで県の各部局から農業団体、商工団体、医療団体、銀行等の金融機関の団体に対して協力要請をいたしました。

それから、同じ14日には津波の被害を受けなかった内陸の市町村に呼びかけまして、翌15日火曜日に岩手県庁に内陸の市町村長さんたちに集まってもらって、沿岸市町村への支援を要請し、特に一時避難者の受け入れ、そもそもこの避難所が間に合うか、足りないのではないか、また避難所に人が入っても、そこに食料を持っていくというのが大変だったのです。

道路、交通がなかなか大変でしたし、またガソリン不足がもうそのころ問題になっていました。ですから、内陸の便利な盛岡市などに避難してきてもらって、そこで食料や必要な物資を提供するほうがいいだろうということで、早い段階から内陸部への一時避難に対する内陸市町村の協力を求め、9,500人分の宿泊施設を確保することができました。しかし、実際には約2,000人の利用しかなかったのでありますけれども、まずいざというときに内陸に一時避難できる体制は発災直後にとっておいたわけであります。

そして、沿岸市町村は津波被害を受けた市町村の間でも連携の形を準備し、4月1日に沿岸市町村復興期成同盟会を設立し、復興期成同盟会と県で合同で4月22日、菅首相に復旧・復興対策の要望書を提出しました。

県と市町村の連携という形をいろんなところでつくって取り組んできたわけであります。

現場力発揮の例

1 道路啓開

「文藝春秋」の5月号で東北地方整備局さんの活躍がドラマチックに描かれているのですけれども、県の土木担当部局も発災その日から沿岸のほうに飛んでいきまして、例えば釜石の鵜住居地区が孤立しておりまして、そこは三陸縦貫道という高規格道路が部分供用されていて、それが素通りする地区だったのです。

そこで、県道から直接三陸縦貫道に乗り入れる臨時のインターチェンジ、スマートインターという言葉がありますけれども全然スマートではない、舗装もされていないワイルドインターという感じの道路をつくって、鵜住居の人たちが脱出したり、あるいは鵜住居に物資を運び込めるように道路をつくらせてくれと国に提案し、国もすぐオーケーを出してくれて、県の土木担当の人たちが住民の協力も得て、幅5メートル、延長15メートルの舗装されていないインターチェンジの道をつくったりいたしました。重機の操作ができる住民がいて、既にいろいろガレキの除去とかもやっている住民と協力をしてやりました。

国の東北地方整備局が内陸から沿岸に向かう国道をどんどん啓開していったわけですけれども、県は県道をどんどん啓開しまして、峠を切り開く「峠攻略隊」を派遣して、内陸から沿岸に向かう峠のルートをどんどん確保していったわけであります。

2 燃料の確保

釜石市のケースですけれども、被災を免れたガソリンスタンドが少ししかありませんで、そこにお客さんが殺到して混乱をしておりました。緊急車両専用の給油所を幾つか指定しなくてはならなくて、釜石市でも指定したかったのですが、普通のお客さんが殺気立って並んでいるところで緊急車両に優先的に給油するというのがなかなかできかねる状況だったのです。それで、県の沿岸振興局という、県の出先が釜石にありまして、3月一杯で廃業する予定だった給油所を見つけて、そこに依頼して、職員も配置して緊急車両専用給油所ということにして、何とか緊急車両への給油ができるようになりました。

このガソリン不足というのは、発災当初から非常に深刻な問題で、菅首相から私にお見舞いの電話が3月14日に来たのですけれども、その時も、とにかくガソリン、燃料を何とかしてくださいとお願いしました。もうその1点に絞ってお願いするくらい、発災直後のガソリン、燃料不足問題は深刻でした。何しろ人の避難、救助、また物資の補給が滞るわけでありまして、東北経済産業局にもかなり訴えたのですけれども、なかなか復帰、復旧しませんで、この燃料不足の解消に、3、4週間位かかりました。

3週間経つあたりには、森ゆうこ議員が岩手に来てくれて、視察したり救援の手伝いしつつ、ガソリン不足について海江田経済産業大臣に直接電話してくれたり、その結果資源エネルギー庁長官から私に電話がかかってきて、どういう状況か教えてくれとかあって、経済産業省にはこれ以上ないくらい働きかけたのですが、それでもなかなか事態が解決しないので、はたと思いついて消費者庁にも働きかけました。

実は、県では燃料問題というのは消費生活担当部局が担当するのです。県には県民生活センターという消費者問題をやるところがあって、ガソリン燃料不足問題も県内のガソリンスタンドの状況を調べたり、取りまとめたりするわけでありまして、県の消費生活担当部局から何かあれば消費者庁にというルートもありましたので、消費者庁にもかなり働きかけました。

蓮舫大臣とか、消費担当の政務三役に現地に入ってもらったりすると大分よくなるのではないかとも思ったのですが、それは実現しませんで、実はかなりの分野については市町村、県、自治体の現場力と、それから担当省庁のつかさつかさの現場力で、分野毎の問題はかなり解決していったのですけれども、ガソリン燃料問題のような複数省庁に関係するような、経済産業省で石油元売りに働きかけて量は確保されたというのですけれども、それを運ぶ運輸関係がうまく動かないとか、またその運輸関係に、高速道路を走る許可を出す警察からの許可がトラックにうまく伝わっていないとか、さまざまな横断的な調整は、現場力だけでは解決しないところで、国の調整力とか指導力とかが必要な分野だったのですが、余りうまくいっていなかったという印象を持っています。

3 応急仮設住宅の早期着工

岩手県では県職員を被災した市町村にどんどん派遣しまして、特に職員の犠牲が多かった陸前高田市については、県職員が市職員と協力をしまして、計画を立案し、発災9日目の3月19日には仮設住宅建設に着工しました。

これは、全国被災地の中で圧倒的に早く着工できて、4月9日には36戸が完成して入居開始できたのですが、その後2週間くらい全国の仮設住宅完成数は、この陸前高田市の36戸のままずっと推移していたのですが、かなり迅速に着工、建設することができています。

(2) オールジャパンで対応

さっき政府、国の省庁毎の現場力は働いたという話をしたのですけれども、国は発災翌日、3月12日に平野達男内閣府副大臣が団長になって、まずは政府調査団ということで23人の各省庁の若手が岩手入りをしております。

この政府調査団は政府現地連絡対策室と名前を変えまして、その後ずっと岩手県庁内に詰めて、市町村、県が現場で直面している課題について、省庁毎に政府につないでいくという機能を果たしてくれました。

平野内閣府副大臣が政務三役として入り、その下には内閣府の防災担当参事官が事務方のヘッドとして入っていて、その下に各省庁の若手が、岩手の場合ですと20数人という形で、これは宮城県でも仙台に東祥三内閣府副大臣が入って、その下に内閣府の防災担当審議官がいて、30人から40人位の各省の若手がそこにそろっていたと聞いていますけれども、平野副大臣も東副大臣も、最初2、3週間、かなり、岩手、宮城に張りついてくれていましたので、そこでいろいろ直面する課題に対応することができました。

現場力発揮の例

1 水産業の復興と教育の危機への対応

発災直後、12の沿岸市町村を私は4日間で一気に回ったのですけれども、そこで一番痛感したのが水産業の関係者がもう絶望状態になっている。

三陸の漁業はもう終わりじゃないかみたいな感じになっていたので、早い段階で国の復興へのコミットをもらっておく必要があると思い、岩手県選出の主濱了参議院議員が参議院の農水委員会委員長なので、主濱了さんにぜひ政務三役、とにかく岩手入りさせてくださいと頼んで、その結果、田名部匡代政務官が3月20日に岩手入りしてくれて、県漁連の会長にも会い、沿岸の被災地も視察して、国がしっかり漁協系統と協力しながら、復旧・復興を支援していくというコミットをしてもらいました。防災関係以外の政務三役が被災地入りしたのは、これが初めてのケースだと思います。

同じ日には、文部科学大臣政務官の笠浩史政務官にも入ってもらい、学校の危機というのが非常に私は気になっておりまして、まず避難所として学校が使われていて、このままで4月、無事に新学期を迎えられるか、津波の被害を受け、授業ができなくなっている学校もたくさんあります。

ちなみに岩手の場合、小中学校は先生に引率されて避難するというのは全部パーフェクトで避難が成功し、犠牲者が出ていません。早引きした人が家族と一緒に犠牲になったケースはあるのですけれども、現場の教職員も非常に疲弊しているので、学校の危機という観点から、文部科学省も復旧・復興に力を入れるべきということで笠政務官に来てもらい、文部科学省もいろいろ被災地に対する人の派遣ですとかをやってくれるようになりました。

2 災害廃棄物(ガレキ)の処理

ガレキの処理については、樋高剛環境政務官がプロジェクトチームの座長になっていて、現地入りをしてくれて、宮城のほうにも入っているのですけれども、地元のほうで被災市町村と県と、そして関係省庁の代表が集まって、災害廃棄物処理対策協議会を開いてくれまして、そこで実質的に市町村負担がないような10分の10補助に近いスキームを決めてくれました。

3 「答えは現場にある」

現場力を発揮して市町村、県、そして担当省庁が結びついて、現場でさまざま問題を解決していくということはいろいろできておりました。「答えは現場にある」という言葉がありますけれども、震災においてもそのとおりだと思っております。

5 歴史に学び、海外に学ぶ

(1) 東北復興院の提唱

関東大震災の時に帝都復興院を提唱し、その初代総裁になった後藤新平さんは岩手の出身でありまして、関東大震災の後に復興院ができたという話は岩手では多くの人が知っております。私も知っていましたので、発災5日後の3月16日には記者会見で、後藤新平さんがつくったような復興院をつくらないとだめだということを言い、それが翌日の地元新聞に載ったりいたしました。

ただ、後藤新平さんは震災5日後に復興院構想を提唱して、1カ月後には復興院が設立し、さらに1カ月後には復興計画が閣議了承と非常にスピーディーに行われているのですけれども、これは東京が被災地だったからできたと思うのです。後藤新平さんをはじめ大臣たちや国会議員たちがいる場所が被災地でありましたので、何が起きているのかがすぐわかり、何が起きているのかがわかれば何をすべきかもすぐわかる。そして、決断し、行動に移せる。

そういう意味で、東日本大震災への対応ということについても、何が起きているのかすぐわかり、何をすればいいのかすぐわかるようにするには、仙台とか、岩手県の中でもいいのですけれども、現地に東北復興院のようなものを設立するのがいいのではないかということを発災当初から提唱しております。

ちなみに、東祥三さんが仙台にいて、平野達男さんが盛岡に常駐していた当初は、事実上、東北復興院の事務方部分はもう既にできていた格好で、そこが現場力として機能していたのです。ただ、頂点の部分は空白状態だったわけでありまして、復興院総裁とか、直属部局のようなものが何かよくわからないような状態でありましたので、復興院というのが一部できていたところと、そうなっていなかったところだと思っています。

(2) クライストチャーチの教訓

クライストチャーチ地震を実はかなり参考にしております。

岩手県で県総合計画審議会委員をやってくれている、私より2つぐらい若い及川孝信という人がクライストチャーチに住んでいて、あの地震を経験して、彼は自治体コンサルタントをなりわいにしていて、岩手県内のいろんな自治体のコンサルタントなどもやっていて、地方行政に詳しいのですが、クライストチャーチ地震の後、クライストチャーチ市がやったこととか、ニュージーランド政府がやったこととか、いろいろ私に送ってくれまして、かなり参考にしました。

まず、先進国としての被災者支援をやらなければということを最初から意識していました。避難所というのは、体育館で雑魚寝みたいなことが何週間も続くというのはちょっと先進国としていかがなものかと。そういうこともあって、内陸に避難できる体制を早くからとっていたのですけれども、先進国としての被災者支援をしなくてはならないという問題意識を当初から持っていました。

避難所の食べ物も、うっかりするとおにぎり、ラーメン、カップラーメン、パンとか、炭水化物ばかりになる。それは支援で送られてきたものをそのまま送っているとそういうのばかりになるので、ちゃんと野菜とか、生野菜が運べないなら野菜ジュースとか、栄養バランスやカロリー量などもちゃんと考えて食事を提供するということを早い段階から心がけておりました。

あと、クライストチャーチ地震では発災から1週間後の発災時刻に全国一斉黙祷をやっていたのです。ニュージーランドの首相がクライストチャーチに飛びまして、全国民に呼びかけながら自分も現地で黙祷をした。岩手では、それに倣って震災から1週間目に全県一斉黙祷をやり、また、発災1か月目の発災時刻にも同様の黙祷をやりました。

6 復興に向けて

(1) 「がんばろう!岩手」宣言

発災1か月目に、黙祷と同時に「がんばろう!岩手宣言」を発出しました。1か月目というのは、一つの節目にしていこうと当初から考えておりまして、岩手でまず「がんばろう!岩手宣言」を出すと同時に、高橋はるみ北海道知事に奔走してもらって、北海道東北地方知事会としても復興に向けたアピールをその4月11日に発表して、そして政府に対してもオール東北の要望を取りまとめたものを提出いたしました。

オール東北としての東日本大震災からの復興のビジョンは、この北海道東北地方知事会がまとめたこれしか今のところないと思うのですけれども、そういう広域の連携にも意を尽くしたものであります。

(2) 岩手県東日本大震災津波復興委員会の設置

同日4月11日に岩手県東日本大震災津波復興委員会を立ち上げ、国の復興構想会議に当たる県の組織の第1回会議を開いて、以降4回会議をいたしまして、もう来週ぐらいには復興構想を取りまとめていくくらいのスケジュールでやっております。

これも後藤新平流でやっているのですけれども、後藤新平という人は非常に緻密な調査、分析をベースに大風呂敷を広げた人でありまして、何しろ満鉄調査部をつくった人でもありますし、東京市政調査会をつくった人でもあります。

それで復興計画もまずは科学的、技術的な必然性というものに裏打ちされていないとだめだと思いまして、この県の復興委員会には津波防災や都市計画の専門家、そういう理系の学者さんや実務家の皆さんから成る津波防災専門委員会をつくり、それと漁協、農協、森林組合、医師会、商工会議所、教員OB、県社会福祉協議会などの各界代表から成る本委員会との車の両輪でやる体制でスタートし、各界代表からは、社会経済的な必要性というのを出してもらい、科学的、技術的な必然性と社会経済的な必要性に立脚した復興計画をつくるというふうにやっているところであります。

7 おわりに

岩手三陸沿岸地方には、全国有数、世界に通用する地域資源があります。海産物がそうでありますし、農業、林業もそうですし、最近は外国に輸出できるようなハイテク製品、その部品なども生産をされています。そういう地域資源があり、それを発掘、磨き上げ、付加価値を高めていくことができる人もいますので、あとはお金さえあれば復興はできると考えております。

国のほうでも三陸復興国立公園構想が環境省から出てきていて、非常に明るいビジョンだと思いますし、科学研究の拠点としても、津波防災、あるいは北上高地という硬い岩盤から成る山が海に沈み込んで三陸沿岸になっているのですけれども、世界有数の硬い岩盤の北上高地は、ILC、国際大型粒子加速器の候補地でもございまして、そういう科学研究拠点としての将来性もある。

また、世界遺産を目指す平泉。位置は内陸ですけれども、平泉は平安時代戦乱で東北全体が荒廃したところから東北が復興して、そして豊かな文化的にも発展していく。その中心にあったのが平泉でありますので、今回の震災からの復興に当たっても、平泉が中心的なシンボリックな役割を果たすと思っています。

平泉の文化遺産は、当時、人と人との共生、人と自然との共生、敵も味方も関係なく、その死者を悼もう。また、人間だけではなくあらゆる生命の死を悼もうという宣言文が当時奥州藤原氏によって願文という形で残されておりまして、人と人との共生、人と自然との共生という平泉の理念は、この復興の理念としてもぴったりだと思っておりますので、そういう方向で復興を進めていきたいと考えております。

以上です。ありがとうございました。

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