交通事故被害者ご遺族の手記

ページ番号3000921  更新日 令和3年4月28日

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蘇る交通死亡現場

楠野 祇晴

 片側二車線の幹線道路(通称:栃木バイパス)、栃木県下都賀郡大平町大字下皆川1713番地1先丁字路交差点でした。事故発生の日時は、平成13年4月7日(土曜日)午前8時20分。偶然にも近くを走行していた私は、妻からの連絡を受けて午前8時43分頃に現場でカーキ色の毛布で被われ変わり果てた敦司と対面したのです。葬儀が終わった3日後に死体検案書を取り寄せました。脳挫傷・後頭部挫創・脊椎骨折・脊椎損傷・左前腕切断。その数日後、検死に係わった外科医と救急隊員に直接お会いしてお話しを聞けました。あばら骨は全て骨折・左足の膝下から複雑骨折し骨が剥き出しで皮によって切断されず足がどうにかくっついていた・左首下の後ろ付近から左胸にかけて深く裂けていた。更に切断された左手は、腕からグローブと共に高熱で焼きついてしまい脱がせることが出来ずそのまま遺体に添えて火葬されたと後日知らされました。

 敦司は会社への出勤途中でした。 ヤマハYZF-R1(排気量1000cc)のバイクにまたがり第一車線上を走行していたのです。前方丁字路交差点の信号は青でした。産業廃棄車の大型トラックが交差点内で一旦停止をせずに強引にバイクの直前で直近右折をしたのです。衝突地点から14.1m手前でバイクのブレーキ痕が始り、ブレーキ痕の長さは3.7m、そのまま真っすぐに10.4m先が衝突地点でした。大型トラックは右折帯から内回りで右折、しかも進入したのは右側の車線でした。右折した方向には赤信号で停止している車両がなかったので二時的衝突は防げたのです。大型トラックのボディ左側面の後輪二軸と三軸付近に衝突したのです。トラックのタイヤの直径は1m。その上部のタイヤハウスまでの間隔は28.5cm。タイヤとタイヤハウスの間に敦司の体が吸い込まれ、かき回されるように体ごと粉砕されたのです。衝突地点から4.7m先で敦司はアスファルトに投げ出されました。トラックは更に40mも走行したのちに停車したのです。

 切断されたハンドルのついた前輪部分とボディフレームから繋がる後輪部分はそれぞれ逆方向に飛ばされ、エンジンオイルやラジエーターの液体が路面に広がっていました。遺留品が散乱していました。燃料タンクはトラックのタイヤに踏み潰されよじれ弾き飛ばされ、歩道上で引火し爆発炎上しました。私が現場に到着した時には、すでに消火作業が済んで、辺りはまるで硝煙のような臭いと煙が立ち込めていました。

 交通ルールを厳守して何事もなく直進してきたバイクの進路をトラックがふさいだのです。直前に巨大な壁の如く遮られ、限られた極わずかな危険回避を余儀なくされながら吸い込まれるように逝った、敦司が受けた恐怖感は想像を絶していたはずです。社会人として2年目。5ヶ月前の平成12年11月には職場の直属の上司とアメリカ本土へ研修旅行に選抜されていました。責任感や協調性があり、職場では信頼されていたそうです。多くの良き友達にも恵まれ、愛し合える最良のパートナーとなるはずの女性とも交際していました。新築したばかりの我が家の二階には、敦司の希望でその女性と将来設計が夢のように沢山詰まっていたはずでした。

 生きたくても生きられず突然にして余りにも理不尽に殺された敦司の無念さを、今は親がその気持ちを引き継ぎ・・・たとえ歳月が経とうとも風化させることなく背負い、亡き敦司との絆を深めているのです。

 親思いでとても優しくたのもしい息子でした。

 

出典:警察庁ウェブサイト(https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/report/h20/shuki.html)を加工して作成

世界でたった一つ、自分だけの宝物

匿名希望

 梅雨入りしたあの日の朝、小学一年の息子は、一才年上の姉と共に登校中に横断歩道の前に居た。信号横につっこんで来たバスの風圧で体を飛ばされ、後輪に轢かれ短い生涯を閉じました。あの日から5年、娘はPTSDで精神科へ通っています。小二の娘の目の前で起きた惨劇は心に深いキズを残しました。

 半年間は娘の手を握り一緒に朝登校しました。事故現場を通らないと学校へ行けませんでしたから。最初は、「怖い、怖い」が口ぐせでした。赤い物を見ると震え出して、パニックにもなりました。

 毎年春になると一週間学校を休学します。頭痛から始まり、腹痛、喘息発作まで、体の不調が出ます。黄色い帽子を見るたび心がぎゅっとなると、当時の担任の先生へ話したそうです。

 中学生になった今でも帰宅後は、私の体に体をくっつけて来ます。

 交通事故は殺人です。もう少し、優しい運転をしてくれていたなら、もう少し、ゆっくり運転していてくれたなら、もう少し手前で止めてくれたなら、あの子は死なずにすんだはずです。なぜあの子が死ななければいけなかったのか、今でも考えています。

 あの日心と体に受けたショックは、私達家族の絆を強くしました。同じ痛みを背負い、生きて行かなくてはならない同志だと思っています。

 そして人の暖かさも知りました。私の住んで居る所には、被害者支援センターが有り、命日に365羽の折り鶴と「365日貴方を忘れない」とメッセージを添えて送られて来ます。見も知らぬ子のために、優しさを頂いてます。今年は、息子と同級生の子達が、一千羽を折って、支援センターへ寄付してくれました。そのお礼に、「命の授業」をさせて頂きました。一年生だった子達も、六年生です。「どんな思いで天国へ行かなきゃならなかったか、僕達は考えてそして今後の生活に、生かして行かなくてはならない」と話してくれました。

 「世界でたった一つだけの自分の宝物、それは命です。お金を出しても買えません。ゲームみたいに生き返ったりしません。」 息子の分も楽しい事、苦しい事、色んな人生を歩んでほしいです。最近娘が弟へ宛てた手紙を国語の授業で書きました。

 「ケンカもしたけど、一緒に笑ったね。短い間しか一緒に居られなかったけど私は忘れないよ、ありがとう。私の弟に生まれて来てくれて、ありがとう。」 事故当日、「私も一緒に天国へ行ってあげられなくてごめんね」と泣いた娘。少しずつですが心の痛みは、薄れて来ていると思います。元通りとはならないかもしれませんが、この娘が歩む人生が少しでも苦しさからのがれられ、楽しいと笑って生きれる日々で有ることを祈っています。私達家族は少しずつ前へ進もうとしています。

 

出典:警察庁ウェブサイト(https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/report/h20/shuki.html)を加工して作成

手記

匿名希望

 娘は、平成17年11月1日午後9時37分、飲酒運転のノーブレーキの車に、ボンネットにはね上げられ、首の骨を折って、即死しました。スピードが60k出ていたそうです。娘は、道路の左側端を自転車に乗って走っていました。それを加害者が発見して、ブレーキもかけずに、ハンドルも切らず、一方的に突っ込んできたそうです。

 娘は、誰にも別れを告げずに亡くなってしまいました。

 その夜、午後11時半頃、病院から電話があり、刑事が、家に居る人全員病院に来るよう告げられました。早速、妻と私が、タクシーで急行しました。最初は、娘が怪我をして、手術をするので立会って欲しいと簡単に考えていました。病院へ行って受付に行ってその旨を告げると、看護士が出てきて、5分位待つと、警察の人と、看護士が来て、霊安室へ行ってくださいと言われました。その時、妻は腰が抜けて立てませんでした。仕方なく私一人で、霊安室へ行きました。娘と対面しました。

 顔の右半分は、くずれてほうたいでぐるぐるに巻き、左半分は血だらけでした。

 余りのショックで、声もあげられませんでした。その夜は、妻共々一睡もできませんでした。次の日の朝、たまたまテレビを見ていると、小倉智昭のモーニングショーで、娘の事故がトップニュースで報じられていました。映像を見ると、犯人がパトカーの中で、Vサインをしているではありませんか。

 これは、交通事故では、ありません、交通犯罪です。娘が、うずくまっているにもかかわらず、救護もせず、救急車も呼ばず、のうのうと煙草を吸っていたそうです。それも他人に指摘されて初めて気づく次第。

 裁判になっても、あやまりもせず、涙も流さない。自分の正当性を主張するだけ。

 親も反省せず、頭も下げない。

 道路交通法で裁くべきものではない。刑法で裁くべきものである。

 人を殺しておいて懲役五年では軽すぎる。

 加害者は弁護士を付けられるが、被害者は置き去り。やっと、犯罪被害者の人々に眼を向けられたが、仏作って魂入れず。

 もっと犯罪被害者のことを考えてほしい。

 

出典:警察庁ウェブサイト(https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/report/h20/shuki.html)を加工して作成

もう一度会いたい

野津 暢子

 2004年8月24日夜、あまりにも突然で理不尽な事故は起こりました。

 その日はいつものように日課である運動を兼ねた散歩に出かけた長男の俊博は、あまりにも身勝手な赤信号を故意に無視した暴走族の車にひき逃げされたのです。救急車にも乗せてもらえず、病院にも運ばれることなく、硬い路面に自転車もろとも身体を強く打ちつけられ頭を強く打ち肋骨が折れ、胸の大動脈破裂のため出血多量で即死状態との事でした。すぐに救急車を呼んでもらえたらあるいは一命をとりとめたかも知れないと思うと、怒りと悔しさと悲しさで私の胸は一杯です。なぜ、どうして大切な一人息子俊博には何の非も落度もないのに殺されなければならなかったのでしょうか。

 裁判によって知りえた事は、大切な息子をひき逃げして殺した犯人は、俊博が事故に遭遇した現場より2、3個手前の信号の時に前を走っていた車が遅いのでイライラしていて、次の信号から赤でも突っ走ろうと決めて、俊博が青信号になり横断歩道を渡ろうとしているところを65メートル位手前で確認していたのです。にもかかわらず、並行して来た車が道路の中央に停車してくださった横を歩道すれすれに猛スピードで走り抜け、俊博をはね飛ばし、そのままさらにスピードを加速し次の赤信号も無視して逃走したのです。

 大切な尊い人間の命を奪い、殺しておきながら、同乗していた女の子の部屋で翌日の昼過ぎまで平気で寝ていたとは、怒りとくやしさと憤りで胸が一杯です。

 最愛なる息子俊博が暴走族の車に気づいた一瞬の逃れられない恐怖と、はね飛ばされ、路面に打ちつけられた時の想像を絶する痛みを思うと、私の胸ははり裂けそうです。犯人は俊博が横断歩道を渡ろうとしているのを65メートルも手前で確認しているのです。ブレーキを踏めば十分停車出来たはずです。それをあまりにも自分勝手な感情で、大切な尊い命をはね飛ばして逃げたのです。これは殺人行為です。絶対に許せません。犯人は現在、道路交通違反、危険運転致死傷罪、救護義務違反等で服役中ですが、この春には出所すると思います。犯人は出所すれば普通の生活が出来るのに、何の落度もない大切な息子は、殺されて帰っては来ないのです。悲しいです。

 息子俊博は、昼間は紺とか黒色の服を着ていますが、夜に外出する時は赤とか黄色の明るい目にとまる色の服を着て外出するのです。事故に遭遇した日も「いってきます」と出ていった時は青色の服を着ていました。1、2分たって戻って来て赤色のシャツに着替えて再度外出したのです。その位すべてに置いて慎重でしたのに、くやしいです。

 葬儀が終って数日が過ぎ警察の方がお線香を上げに来て下さいました。夜中にもかかわらず交通課の署員を全員招集して事故の処理と逃走した犯人を追って朝方まで尽力して下さった事を知り、お世話になり本当に有難う御座いました。心より感謝申し上げます。

 息子俊博は、心の優しい純粋な気持を持った息子で、殺されなければ倍の年月を生きたであろう人生に、夢や希望がたくさんありました。児童文学や絵本作家を目指していましたので、原稿を書きためていました。その一部作『虹色の約束』を事故から1年たって出版しました。本人もどんなにか自分の手に持って喜びたかったかと思うと無念で、俊博の気持ちを察すると可哀想で涙がとまりません。事故から一日一日遠くなりますが、息子への思いは日々強くなるばかりです。

 大切な息子が天国に召されて4年6ヶ月になりますが、いまだにその現実を受けとめる事が出来ず、家の中の総ての物事に俊博への思いがつながり、毎日を胸がしめつけられる思いで私達は生きています。人生が終るまでこの気持ちは変わらないでしょう。このような悲しい気持ちで日々生きて行くのは、私達だけでたくさんです。

 命の大切さ、尊さは何ものにも代えられません。赤信号で停車するのは当然です。青信号になったら、誰でも安心して横断歩道を渡れるよう、社会の人達が交通規則を守り、特にひき逃げ事件など交通事故が絶対起こりませんよう祈るばかりです。

 

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嘆願書

匿名希望

 交通事故により、最愛の長男(当時15才)を亡くしました。事故は平成13年2月27日、中学校から帰宅途中に起きました。高校受験を目前に長男は悪質な飲酒運転及び脇見運転の車に撥ねられ、意識不明の状態のまま、同年3月15日に短い人生に幕を降ろしました。私は子供の死を受け入れられず、苦しみました。2才違いの妹が居りましたので、その子のために生きていたように思います。

 さて、加害者は自宅から徒歩で10分もかからない所に住んでおります。加害者が近くに住んでいる事もあり、色々な情報が耳に入ってきました。常に酒を飲んで運転していたこと、事故後も飲酒運転は続いていた事等です。事故が起きてから数日も経たないうちに、加害者の方から、地元の市会議員を中心として嘆願書が集められ、警察署に提出されました。病院から離れられない私達夫婦には何もできないままの状況でした。同じ地域で加害者と被害者が生活をするのはとても辛いことです。地区の行事への参加等、何もかも私は出来なくなりました。加害者の謝罪もありません。この嘆願書について思ったことは、加害者が飲酒運転、脇見運転をして交通死亡事故を起こしている事実に署名をするということは、それが正しいと認めることです。田舎ならではの風習があり、地域の人、親戚、友人、知人等その方から頼まれたら断れない、村八分になる等の理由で署名したという方もいたのです。でも、地域の人でも私達のことを考えると署名できないと言われた方もおりました。嘆願書が提出されたことは、私の心に深い傷を残しました。まず、家から出られなくなったこと、そして近くのマーケットでの買い物が出来なくなったことです。マーケットでは「大変でしたね」と頭の先から足の先まで視線をおとされ、亡くなった子供の同級生のお母さんからの「お陰様で昨日、高校の入学式でした。」という何気ない言葉に返す言葉もなく、只涙をこらえるのが精一杯でした。加害者は私の自宅の前を車で通ります。バス停も自宅の前にあるので、そこから加害者の奥さんが子供達と一緒にバスに乗ります。何故平気でその様なことが出来るのか、私には理解出来ません。私は今、自助グループに入会する事により、ようやく生活している状況です。私の住んでいる小さな地区で嘆願書が提出され、今ではもう8年も経つんだからと思っている人達も多いでしょうが、まだ私は事件当時のままの気持ちです。地区の人から裏切られたと思っています。娘が成長するのを見るたびに15才で止まってしまった長男の事が毎日の様に思い出されます。民事裁判を起こしましたが、これには大変協力してくれた地区民の方がおりました。これはとても有り難く感謝しております。そして自助グループが有った事が良かったと思っております。まだまだ立ち直れない私ですが、これからは残された家族、色々協力して下さった方を思い生活していかなければと思っています。

 

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