| 鬼瓦(おにがわら) |
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鬼瓦復元模型 明後沢遺跡(みょうごさわいせき)出土 |
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| 前沢町育委員会 平安時代 初期 |
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| 高さ45.8cm 巾 41.3cm 厚さ 8.0cm |
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| 水沢市佐倉河(さくらがわ)を訪れると、水田やりんご畑の広がる地に、胆沢城跡(いさわじょうあと)という看板がたっています。今ではのどかな田園地帯ですが、約1200年程前には、奥州守備(おうしゅうしゅび)の最高軍政府(さいこうぐんせいふ)である鎮守府(ちんじゅふ)がおかれた胆沢城が建てられていました。造営したのは坂上田村麻呂(さかのうえの
たむらまろ)で、 802年のことでした。 胆沢城跡は、発掘が進められ、いろいろな遺物(いぶつ)が発見されています。そのうちの1つである鬼瓦(おにがわら)に着目してお話しを進めていきましょう。 胆沢城が建てられた頃は、瓦葺(かわらぶ)きではなく、多分 板葺(いたぶ)きだっただろうと推測されています。それが60〜70年後、つまり9世紀後半に改築することになりました。その時に、立派にそして威厳(いげん)をもたせるために瓦葺きになったのでしょう。 鬼瓦というのは、瓦葺き屋根の大棟(おおむね=屋根最上部の水平部分)の両端や、降り棟(くだりむね)、隅棟(すみむね)などの下端に魔除けのために取りつけたものです。ここに展示してあるのは、胆沢郡前沢町にある明日後沢遺跡(みょうごさわいせき)出土のものを基本にして復元したものです。実際に胆沢城 跡から出土したものは、上の部分の約3分の1位です。また、この鬼瓦以外に丸瓦や平瓦も沢山発見されています。では、この瓦は一体どこで作られ、焼かれたのでしょうか? この時代、土器の作り方にも変化が見られます。それは須恵器(すえき)と呼ばれ、ロクロを使って作り、窯(かま)で焼きます。須恵器や瓦を焼く窯は、胆沢城の場合、城跡から北へ約10km離れた北上川東岸にある江刺市瀬谷子(せやご)にあったとされています。窯の数は 200基程確認されており、これは県内最大規模のもので、平安時代前期の県内の瓦の窯としては唯一のものです。 胆沢城が建てられた辺りの村人たちは、大きさが6〜7mの茅(かや)などの草作りの竪穴住居(たてあなじゅうきょ)に住んでいたのですから、こんな瓦葺きの大きくて立派な見たこともない建物が並んで、さぞかし驚異(きょうい)に感じたことでしょう。現代で言えば、田舎のど真ん中に高層ビルが建ったようなものですね。 でも、この鬼瓦を見て下さい。目はつりあがり、鼻や口は大きく、キバがはえ、太いひげのようなものが力強く下にむかってはえています。もちろん魔除けに使われたのですから確かにこわい顔の要素はあるものの、愛らしいお顔をしていると思いませんか?都でエミシと呼ばれて恐れられていた人々は、実は力で威圧(いあつ)しさえすればいいと思われるような人々ではなく、本来は心優しく、和やかで、このようなユーモアあふれる人々であったことも、胆沢城の責任者たちは熟知(じゅくち)していたのではないでしょうか。 |