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平泉の特徴
平泉の威容は、歴代当主によって整えられています。北の入り口にあたる中尊寺では、一基塔と高さが15mもある二階大堂が周囲に威を放ち、南の玄関口の毛越寺周辺では、幅30mにも及ぶ大路と整然と交差する道路、建ち並ぶ宝物庫、行き交う牛車が圧倒しました。さらに平泉は、各所に造られた大寺院によって浄化され、楽土となったのです。
藤原氏の理想郷建設は、都市内に止まりません。周辺の山々に経塚を造り、また植林を施し、周辺環境を整備していました。東の束稲山には、奈良の吉野山に勝るとも劣らない数の桜があったといいます。そのような景観は、数年で培えるものではありません。
清衡から受け継がれた平泉の理念は、仏教による平和社会の構築です。その究極の姿は、無量光院に見ることができます。無量光院は、極楽浄土をこの世に表したものでした。本堂は極楽の宮殿を意味し、庭園は極楽世界そのものを表現しています。
これらを実現可能にした背景には、膨大な量の産金と南北交易による大きな利益がありました。この潤沢な財力を惜しみなく使うことにより、平泉は成り立っていたのです。
落日、そして現代へ
1187年、秀衡が没しました。臨終にあたり秀衡は、「源義経を大将とし、息子たちの力を合わせて源頼朝と戦いなさい」と遺言したといいます。しかしこの遺言は、実行に移されることはありませんでした。
1189年4月、四代泰衡は、頼朝の圧力に屈し、義経を自害に追い込んでいます。さらに6月には、義経と懇意だった弟である忠衡をも殺害しました。これらの状況を見て頼朝は、鎌倉を発したのです。鎌倉の大軍は、8月には平泉に進駐しています。そしてその翌月に奥州藤原氏は滅亡しました。
平泉は、藤原氏という庇護者を失ったことから、少しずつ衰退していきました。1226年の毛越寺の円隆寺、1337年の中尊寺主要堂塔と徐々に焼失し、1600年ごろにはおおよそ現在の状態になったようです。
往時の建物の多くは、灰になり遺跡化しました。また庭園などは、田地となっています。しかし平泉の人々は、誇りを持ち続け、遺跡を良好な状態で現在まで守ってきました。さらに舞いなどの芸能もよく伝えられています。「平泉の文化遺産」は、過去の栄華の痕跡だけではなく、現代にも息づいているものなのです。 |