平泉の文化遺産を世界遺産へ
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平泉の歴史・概要

平泉のはじまり (平泉略年表、安倍・清原・藤原氏関係系図)
統治範囲図
 11世紀末、奥州藤原氏初代清衡は、岩手県南の江刺から平泉に館を移しました。平泉に進出した理由は、京都に類似した地形、水陸交通の要衝地、北限南限の植物が混在する南北自然の交錯点であったことなどが考えられます。さらに近年判明したことですが、北上川東岸地域に大穀倉地帯が広がっていたことも要因の一つかもしれません。
 平泉に来た清衡は、関山の山頂に一基の塔を建てました。これが関山中尊寺造営の始まりです。この塔の建立は、平泉が東北地方の中心であることを意味し、また清衡の楽土建設の意思表示でもありました。
 清衡の統治範囲は、南は福島県白河関、北は青森県外が濱です。白河関は北緯37度、外が濱は41度、そして中尊寺は39度に位置します。平泉がその領内の中心であることは、緯度からも明白です。


奥州藤原氏の繁栄

 奥州藤原氏は、ムカデ退治で有名な俵藤太こと藤原秀郷の子孫といわれています。清衡の父である経清は、亘理権大夫と呼ばれていたことから、宮城県を本拠とした豪族だったようです。前九年合戦の際、経清は安倍氏に荷担しました。そのため安倍氏の敗北とともに、経清も処刑されています。このとき清衡7歳。戦の習いでは、清衡も父同様の運命を辿るはずでした。ところが母は、敵方の清原氏に清衡を伴い再嫁したのです。清衡は奇跡的に命を助けられました。
 のちに清衡は、清原家の家督相続争いに巻き込まれました。後三年合戦が勃発したのです。清衡は、絶妙なバランス感覚でこの合戦を唯一生き延び、ついに東北地方の覇者となったのでした。しかしその過程は、異父弟に妻子を殺害されるなど、肉親相食むあまりにも悲惨なものだったのです。

 清衡は、非戦を決意し平泉へと向い、中尊寺を建立しました。1124年、金色堂落慶。1126年に主要堂塔がすべて完成したことにより、大法要を営んでいます。その席上清衡は、戦争のない理想郷を造りたい、という主旨の願文を読み上げたといいます。その2年後、清衡は眠るように入滅し、遺体のまま金色堂内に葬られました。
 二代基衡は、父の遺志を継ぎ、平泉の南の玄関口に毛越寺造営を開始しました。毛越寺周辺を京都の鳥羽・白河のようにすることが目的だったようです。毛越寺の本尊作成の謝礼記録からうかがい知れますが、すでに基衡の頃にはかなりの財力がありました。しかし山を切り拓き池を掘り、全面に玉石を敷き詰め伽藍を造る作業は、困難を極めたようです。のちに「吾朝無双」と称された金堂円隆寺は落慶したものの、嘉祥寺の完成を見ずして、脳溢血によりこの世を去りました。1157年のことです。
 三代秀衡により嘉祥寺が完成し、毛越寺は落慶しました。さらに秀衡は、柳之御所遺跡付近の再整備を行い、無量光院、加羅御所、平泉館という平泉の政治的中枢部を造り上げています。ここに、要所に大寺院を配した都市平泉が完成しました。

平泉の特徴

 平泉の威容は、歴代当主によって整えられています。北の入り口にあたる中尊寺では、一基塔と高さが15mもある二階大堂が周囲に威を放ち、南の玄関口の毛越寺周辺では、幅30mにも及ぶ大路と整然と交差する道路、建ち並ぶ宝物庫、行き交う牛車が圧倒しました。さらに平泉は、各所に造られた大寺院によって浄化され、楽土となったのです。

 藤原氏の理想郷建設は、都市内に止まりません。周辺の山々に経塚を造り、また植林を施し、周辺環境を整備していました。東の束稲山には、奈良の吉野山に勝るとも劣らない数の桜があったといいます。そのような景観は、数年で培えるものではありません。
 清衡から受け継がれた平泉の理念は、仏教による平和社会の構築です。その究極の姿は、無量光院に見ることができます。無量光院は、極楽浄土をこの世に表したものでした。本堂は極楽の宮殿を意味し、庭園は極楽世界そのものを表現しています。
 これらを実現可能にした背景には、膨大な量の産金と南北交易による大きな利益がありました。この潤沢な財力を惜しみなく使うことにより、平泉は成り立っていたのです。



落日、そして現代へ

 1187年、秀衡が没しました。臨終にあたり秀衡は、「源義経を大将とし、息子たちの力を合わせて源頼朝と戦いなさい」と遺言したといいます。しかしこの遺言は、実行に移されることはありませんでした。
 1189年4月、四代泰衡は、頼朝の圧力に屈し、義経を自害に追い込んでいます。さらに6月には、義経と懇意だった弟である忠衡をも殺害しました。これらの状況を見て頼朝は、鎌倉を発したのです。鎌倉の大軍は、8月には平泉に進駐しています。そしてその翌月に奥州藤原氏は滅亡しました。
 平泉は、藤原氏という庇護者を失ったことから、少しずつ衰退していきました。1226年の毛越寺の円隆寺、1337年の中尊寺主要堂塔と徐々に焼失し、1600年ごろにはおおよそ現在の状態になったようです。
 往時の建物の多くは、灰になり遺跡化しました。また庭園などは、田地となっています。しかし平泉の人々は、誇りを持ち続け、遺跡を良好な状態で現在まで守ってきました。さらに舞いなどの芸能もよく伝えられています。「平泉の文化遺産」は、過去の栄華の痕跡だけではなく、現代にも息づいているものなのです。


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